銀のレイヴン 1

 冒険者ギルドにはローゲルによって、世界樹に隠されていた例の遺跡の調査結果がもたらされた。『煌天破ノ都』と名づけられた遺跡の最初にそびえる『王の石門』には、王の認証とかいうものが必要で、その認証とかいうのは遺跡の奥の、さらなる迷宮に隠されているという。エリゼにはよくわからないが、兎にも角にもそういうことらしい。
 数々の迷宮を踏破した銀の稲穂団には当然、煌天破ノ都攻略が期待されていたのだけれど、何しろ銀の稲穂団は今、ワイヨールという決定打が欠けていた。彼はまだしばらく左腕を動かすことができない。だからこの日、二班というバックアップの存在はやっと脚光を浴びて、エリゼは単純にそれが嬉しい。これまでも二班で迷宮に挑むことはあったが、一班のように最前線で迷宮を踏破する働きはしていなかったからだ。
 エリゼ、ギノロット、ハンナ、モモ、そしてニョッタ――リーダー・ブレロがさらりと言ったそのメンバーは、ワイヨールの位置にそっくりニョッタを入れた、二班が中心の組み合わせだった。
「エリゼとギノは二人でモモを守りつつ戦う。ハンナは影から相手をイロイロする楽しい役だ。そしてニョッタはハンナが撹乱して作った隙を大いに突け」
 演習場で連携の取り方が研究され、フォートレス二人は練習の実験台になっていたのだが、エリゼはちょっぴり不安だった。二班とは勝手が違う。
 未踏破の迷宮ということももちろんあるが、問題はギノロットという口数の少ないソードマンだった。悪い人物でないのは承知しているが、どうしても一歩踏み込むのにためらうものを感じさせる。言葉の問題もあるかもしれない、でもただ何となく距離を置かれている気がする。銀の稲穂団に入ったら、彼は最初からそうだった。一班のメンバーが彼を受け入れているのが不思議なくらいだ。
 エリゼは、先輩がギノロットにボコスカにされている様を、じっと観察していた。彼の一撃は訓練用の突剣にも関わらず鋭く、ブレロの二の腕に確実に当てていく。剥き出しになった僅かな関節を狙って、一刀ごとに正確性を増していく切っ先はインナーを割いた。訓練用の突剣は完全に凶器になっている。
 それでも聖なる力が盾に渡り、舞いの体捌きもあって、致命打には程遠く、出血がない。時に顔をしかめても、モモの方陣が地脈を動かせば、彼はもう無傷に戻っている。
 途中でニョッタを交えてリンク技の試運転までしはじめ、どんどん恐ろしい光景になっていくが、ブレロは涼しい顔して、概ねの攻撃を盾で受け流した。ニョッタの印術は極めて威力が控えめにされていたし、剣も当たってはいるから、ちゃんと訓練になってはいる。
「すまん、さすがに投刃は勘弁してくれよ」
 しばし観戦していたハンナがユラリと立ち上がったとき、彼はようやくストップの声を上げた。しかし、斬るなとは言わなかった――本当に人間かな? ハンナの変則的な動きの二刀を往なす先輩の姿に、エリゼは息を呑んだ。
 やがて手持ち無沙汰なワイヨールが首を突っ込み、氷のつぶてでブレロの援護を始め、それでブレロはようやくひっきりなしのダンスを終えることができた。ああ、よかった先輩、それ以上やったら死んじゃいますよ! とエリゼが思ったときに、その先輩は汗を手で振り捨てて、
「エリゼ! 疲れた俺は少し休むぜ」
 ニッコリ笑った。この先輩は鬼かよ。
 一人きりのエリゼは必死になってかわした。力の限り舞って、両足に着けたダンサーの鈴が辛うじて不思議なリズムを刻み出すと、やっと体が軽くなった。そうすると世界が急にゆっくり回りはじめ、あんなに苛烈に見えたギノロットの手が読み取れるようになった。あれれ? エリゼは目を丸くした。
 まだ突剣に慣れていないのか、彼は案外直線的な動きをしている。正面から柔らかく受け止めて左へ押し流してやると、簡単にバランスを崩した。ギノロットの舌打ちが耳に聞こえ――おやおや、私ってひょっとしてイケてた?
 盾を持つ手に力を込めると、右腕の籠手から聖なる光がみなぎった。研鑽を積まないと起こせないこの光は、エリゼの自慢だった。きっと城塞騎士はみんなこれを誇りにしている。だからニョッタがこわごわと雷撃の印術で触れて来ても、なんにも心配いらなかった。ただ盾でしっかりと受け止めていれば、光がすべて弾き散らした。やっぱり! 私、結構イケてるぞ!
 たまに足がもつれたとき、ワイヨールがエリゼを助けてくれた。彼が現れると相手三人はみなぎょっとなって動きを止める。怪我人相手に撃ち込むような真似はできないし、氷つぶても当たれば痛い。
「ワイヨル、ナイス!」
「おまかせしてよ。その調子でバンバン続けて」
 エリゼが賛辞を送ると、彼はのほほんと返した。おそらくはそういう経験をたくさん積んできたのだろう、こちらと目線が合いつつも、右手は素早く印を刻むのを忘れない。エリゼは期待でドキドキしてきた。
 と、そこでニョッタが氷の聖印を刻んで放つ。周辺の元素がすべて彼女のものになっていき、ワイヨールの右手は聖印が絡み、氷つぶてが出なくなった。
「ありゃ……じゃあごめん、乱暴だけど見切って頂戴っ」
 言うが早いが彼の指からは警告の『火球未満』が放たれ、地面に叩きつけられて火の粉が四方八方弾け飛ぶ。観戦していたレリッシュがキャッと飛び、ブレロも驚いて身じろぎする。ニョッタとギノロットがぶうぶう抗議の声を上げ、モモもさすがに怒り出し、エリゼもちょっと引き攣った。それでもワイヨールはちらりと舌を出しただけである。
 しかし、ワイヨールなんてものともしないのがハンナだった。マントで火の粉を払いのけ、エリゼめがけて流れるように刃を振り抜かれたが、手癖らしい左手からの斬り上げを、エリゼの盾は弾き返した。だが途端にマントが翻って死角を作られ、次ぐ二撃目を見抜くことができず、エリゼはまんまと袈裟斬りに押されてバランスを崩した。
 しかしハンナは軽い。この子を跳ね上げるなんて簡単だ! 盾を突っ込んで押し上げると、ハンナは盾に足をかけて曲芸のような軌道を描いて宙を舞い、再び地面に着地した。あまりにも華麗だったので、エリゼはほれぼれと見てしまった。
 エリゼが体勢を戻す間にワイヨールの燃えるアンダースローがいくつも地際を飛んでまた弾けた。まるでネズミ花火みたいな動きの一瞬の火だったが、足元に叩きつけられた明確な『下がれ』のサインに三人組はあっという間に距離を離されてしまう。遠くでギノロットがちくしょうと悪態をついた。
「覚えとけよ、迷宮にワイヨールいねーかんな!」
 めげないギノロットが走り出すと、ハンナとニョッタがそれに続く。エリゼは足元の不思議な音を確認し、盾でギノロットの軸を捉える。いよいよ彼の間合いが迫ってきたとき、その左腕から何かを強く振り抜かれた。ギノロット自身の盾だ、体の影に隠されて見えていなかったのか――でもなんてことないぜ! エリゼは鋭角に構えた盾で進んで受けて流し切り、ギノロットはまたもエリゼの左に流される。
 だが、今度は舌打ちは聞こえなかった。そのかわり、すれ違ってふと彼と目が合った一瞬に、エリゼは胸騒ぎを覚えた。仕掛けられた何かにまんまと嵌まった時の恐怖が走る。
 流れていったように見えたギノロットの体が勢いに乗って回転し、エリゼは左正面から痛烈な斬撃を食らった。かろうじて盾の縁を噛ませても後方に向かって強い衝撃が走り、持って行かれそうになるのを耐えても盾から右手が離れてしまった。エリゼは懸命に片腕で抵抗した。足元のリズムも大いに乱される。
 ガラ空きになった右からハンナが剣を振りかざし、これを戦鎚で払い退け、慌ててバックステップで難を逃れたと感じた途端、思いがけず誰かが飛び出した。ニョッタがギノロットの影から現れて雷撃を放ち、たまらずエリゼは横ざまに倒れて転がった。回る視界にハンナの双剣が怪しく光る!
「――ダメーッ! 殺されたあ! もうお手上げ!」
「やったねーウチが殺した。エリゼちょろい。ちょろすぎぃ」
 ハンナが満足そうに納刀して、倒れたエリゼに手を貸した。盾を放棄し、戦鎚を転がし、エリゼは肩で息をする。
「ニョッタがそこにいると思わなかったあ! ちっちゃすぎだよ!」
「エリゼったら大げさ。普段もしてるわ」
 エリゼは息を切らしていた。集中していた分か、反動がきつかった。髪の毛が汗で貼りついて、何度も掻き上げる。
 ニョッタがそんなふうに雷撃を放つことはよく知っていたが、いざ連携されると勝手が違った。それまでは前に一人きりだったから、気づけなかったのだ――嘆息すると、エリゼに新しくできた前衛の相棒がどことなく不満そうな顔をして言った。
「俺のことも褒めろよな。ビビってたくせに」
「だって……ただの突進ボーイかと思ってた! 突剣から斬撃って卑怯じゃない!?」
「斬っちゃいけない訳じゃない」
 口ぶりは素っ気なくとも微笑を浮かべたギノロットに、エリゼは悔しい笑顔を浮かべてハイタッチを求めた。彼は気分よさそうに応じたか、ベチンとぶっ叩かれてしまい、やたらに痛かった。

 女子三人でシャワー室からさっぱりして出てくると、ブレロとギノロットと、ギノロットのことが大好きなレリッシュが先にロビーで待っていた。この後は皆で夕食に出かけるが、怪我人ワイヨールはモモを連れて一足先に帰っていた。夕食に誘ったのに、動かない腕に難儀しながら人と食事するのはもどかしいという。
 エリゼが夕食をどこにするのか尋ねたら、ギノロットは行きたい場所があるという。
「ほおお、どこどこ?」
 聞き返すと、ギノロットはどこかためらいがちに答える。
「……『レイヴン』ってギルドが行きつけにしてる、酒場。あの人たち、明るくて面白いから」
「『あの人』ぉ? ギノくんが人に敬意を示すのって珍しくない?」
 誰かをあいつ呼ばわりしないのを初めて聞いた気がした。それにレリッシュが面白くなさそうな顔をしている――この子は本当に、最近隠さなくなってきたなあ。
「古株なんだよ。ワールウィンドとおんなじくらい長いと思う」
 それが本当ならタルシスに気球艇がもたらされた時期の人だ。かれこれ五年は続いているだろう。エリゼもブレロもまだ聖なる光と遠かったころから、彼らは冒険者だったことになる。
「界隈では有名なギルドだぞ? 煌天破ノ都の話もいろいろと聞けるだろ。収穫多いぞぉう! あと俺は『レイヴン』を今まで秘密にしてたギノを潰す」
 ブレロが底意地悪そうにウキウキしながら冒険者ギルドを出ていって、うんざり顔のギノロットが道案内役になった。
 酒場は冒険者ギルドからそこそこ歩いた場所にあった。クタクタの体を引きずるように歩いて辿り着いたら、ドアを開けた途端にわっと声が上がった。
「ギノロットぉー、やっと来た! 寂しかったじゃんかーこのバカ!」
 南方訛りが飛んできて、ドアを開けたギノロットは頭を殴られた。というか、避けもしないで黙って殴られていた。文句も言わない。うっそ――エリゼは信じられないものを見た。
 声の主は茶色いぱっつんショートボブがよく似合う女性だった。三十代に差しかかったくらいに見えて、笑顔は明るいが、充分といえるほど酔っている。まだ夕食時を迎えたばかりなのに、すでにできあがっているらしい。ギノロットはただただぱっつんに引っ張られて行ってしまい、エリゼたちは取り残された。レリッシュが呆然と、
「何……?」
 一言しか言えない。それだけ言えれば満点だとエリゼは思った。
 ショートボブの向かったテーブルで大柄の男性が手招きするので、残った四人は従って、先客の開ける椅子に腰かけた。エリゼはちらりとブレロを見たが、目が合っても首を傾げるばかり。肝心なときに何にも頼りにならない。せめてもの慰めに、レリッシュをギノロットのそばに座らせてあげた。エリゼとブレロに挟まれて手招きの男が苦笑いして、テーブルの向こうではギノロットが見たこともないほど頬を伸ばされている。
「悪い悪い。うちのはギノが大好きでさぁ」
「……だいすき……?」
 その様子を黙って見守るしかないレリッシュの声が、地獄から低く響いた。
「いやいや、そういう意味じゃないんだ! ごめんな! 本当ごめん、『妖精』ちゃん」
 銀の稲穂団は顔を見合わせ、レリッシュが頬を赤らめた。呼ばれる本人が恥ずかしくも気に入っているそのあだ名は、銀の稲穂団しか知る者がいないはずだった。ギノロットから案外多くのことが伝わっていそうな雰囲気がした。
 金色がかった茶色の髪と黒い瞳の彼は、いかにも盾職のがっちりした体格をしている。ギノロットをもみくちゃにしているぱっつんを見ながら、
「ギノの南訛りを聞くと嬉しいんだよ、ウチのは南の生まれだから。そいつが『レイヴン』のマルデル、オレは旦那でリーダーのオーズ。おーいニーナ、銀の稲穂団の踊れる砦が来たぞ、こっち来いよ! なあ妖精ちゃん、大丈夫か」
「ん? おいレリ。レリッシュ? ああうん、ちょっと落ち着け。ああ、それで問題ない、オーケー」
「あー、『残念な妖精』……なるほどなぁ」
 取り乱すあまり両手を上げ下げしながら何か言いたげで何も言えないレリッシュに、ブレロが声をかけると、彼女はなんとか手を膝に置くことに成功した……この派手に取り乱すレリッシュを見たら、なるほど何かが残念な、ただの小柄な少女だった。エリゼはちょっぴり溜め息が出た。
 そうやってオーズが一人ひとりを聞いていき、酒場のあちこちに散らばった『レイヴン』のメンバーも明らかになった。とはいえ、ここにいるのはごく一部だけ。レイヴンは大所帯のギルドで、全部で二十名前後が籍を置いているとか。互助会的なギルドで、気の合う同士でつるんでは、気ままにやっているのだと言った。話を聞いているうちに、頼んでもいないのにエリゼたちへビールが運ばれてきて、会する一同はマルデルの「銀の稲穂団の実りある苦難に!」の声で乾杯を交わした。あっちこっちで泡が飛び跳ねてえらい騒ぎになって、再び酒宴が始まった。
「早く仲間を連れて来いって言ってたのに、いつまでも一人で来るもんだから。嫁も待ちくたびれてさぁ。お前らに会えてオレも嬉しいよ。何しろ三度も新大陸を見つけたギルドだもんな」
 言われて、ブレロは驚きの声を上げた。ブレロはレイヴンと相棒が繋がりを持っていることさえ知らなかったのだから、まして会いたいと思われていたとは青天の霹靂だった。
「何で黙ってたんだよ、本当に」
「ギノはな、そこらへん歩いてたのを嫁が聞きつけて捕まえたんだ。しゃべりが荒いって言われて気にしてたからさ、相手がいるとまあ、はしゃぐのはしゃがないのって」
 オレは嫌いじゃないけどな、などとケラケラ笑う。
 ふと見ると南方の二人組は勝手にいろんなことを話していて、時々レリッシュが正論でついていこうとして、ギノロットとマルデルが大喜びで笑った。何とか落ち着きを見せるレリッシュに、エリゼは少し安心し、そして上機嫌になっているギノロットを初めて見た。くしゃくしゃにされた髪の毛もそのままに、普通の顔で笑っている。しかもよく見るとレリッシュのすぐ隣に座って、レリッシュが混じる空気を作ってやっているのだ――そういうことができる人間だとは思っていなくて、エリゼは内心で驚いてしまった。
 オーズに呼ばれたニーナというダンサーは、真っ赤な髪をベリーショートにした、小麦色の肌が光る美女だった。引き締まった肢体を惜しげもなく晒す姿は、実にまぶしい。めっちゃ腰のくびれがセクシーだ! ――エリゼとブレロが色めき立つと、ニーナは芝居がかって悩ましげに微笑んだ。そのよくわかっている微笑みでまた、フォートレス二人は馬鹿のようにキャッキャして喜んだ。しかも彼女は赤い口紅で輝くくちびるで、溜め息混じりの色っぽい声を響かせて話すので、それがまた何とも耳に心地よい。微笑むたびに長いまつ毛に彩られた瞳が輝いて、うっかりエリゼは「はわわ」と言ってしまった。はわわ、セクシーの権化がいる! 美貌に目がくらむっ! 女の私でも目が釘づけだっ!
 フォートレスとダンサーが膝を突き合わせて話すのは楽しかった。どうしてフォートレスがサブダンサーになったのかとか、エリゼとブレロがどう違うフォートレスなのかとか、またはブレロにニーナのダンス講座が始まって、レクチャーまであったのだが、しまいにはお手上げのポーズを取った。曰く、踊るにしては下手に身体ができすぎてしまっているのだという。
「仕方がないわ。筋肉を落とすか諦めるかすることね」
 ならばとばかりにエリゼが真似てみると、難なくさらりと腰が回せる。隣のブレロは関節を押さえて痛がっている。おおう、本当だ! エリゼはうなった。面白くなってきたエリゼはニーナをたくさん質問攻めにして、ニーナはエリゼの体のあちこちに触れながら筋肉の使い方を教えていく。
「……俺も美女に手取り足取りされたい。羨まズルい」
 やや踊れぬほうの砦はむくれ、オーズがゲラゲラ笑った。
 と、向かいの席で「はぁあ?」という怪訝な声がした。マルデルがギノロットを問い詰めている。
「モフるのやめちゃったの? 練習してたんだろ? なんで」
「だって」
「だってじゃねーし! サブモフ仲間ができたと思って楽しみにしてたのに。二人でモフモフしながら一緒に迷宮行きたかったじゃんか。なんでモフんねーのっ」
 何をモフモフ言っているのかと思ったら、『モノノフ』の略称モフだ。前のめりで不平を漏らすマルデルに、ギノロットは仏頂面になった。
「……うまくモフれなくて『羅刹』で死にかかっておっかねーから辞めたの。俺マルデルみたいに器用じゃなかったわ」
 ギノロットは不機嫌そうにジョッキの中身を飲み干すと、
「なくなっちった。ぜんっぜん酔いきんねー。薄いんじゃねーの?」
 不機嫌にゆらりと立ち上がってカウンターに行ってしまった。エリゼは一抹の不安とともにブレロを見るが、ブレロも困った顔を見合わせてくる。
 ギノロットが木偶ノ文庫で死にかかって帰ってきたことは、当然エリゼも知っている。肩以外はピンピンしているワイヨールの隣で、ギノロットはこんこんと眠っていた。病衣からのぞいた首や顔に傷跡を残して、ずっと目を覚まさずにいた。
 ワイヨールが先に退院して、翌日に何か不自由していないかと訪れたら、今度は印術の教科書に突っ伏して寝ていた。ダメ押しのように行った三回目は、椅子にしっかり腰かけたまま教科書を取り落として寝ていた。肩を叩いてみてもよだれを垂らしてスヤスヤとよく寝ている。エリゼは呆れた。器用かよ! 私でもそこまでやったことないよ!
 それ以上をエリゼは知らない。先輩ブレロからは苦い顔で、モノノフの業のコントロールに失敗した、とだけ聞かされた。もちろんギノロットから何があったのかなんて喋りだすわけがない。そうでなくても印術の本とともに沈没していることが頻繁になった。銀の稲穂団でもごく一部のものしか知らない事情があり、エリゼは知る立場にない。
 それがあってギノロットは、エリゼにとって何となしに遠い仲間だった。
 すぐにジョッキをいっぱいに満たしたギノロットが戻ってきて、マルデルを見た。マルデルは諦めたような顔をしてビールを飲む。
「ちぇっ。せっかくソドモフ仲間ができたと思ったのに」
「……だって『羅刹』が怖ェんだもん。そんで死にかかってんだから、そりゃ辞めるっつーの」
「どんだけ羅刹になりきってんだよ。お前は鬼かよ」
「逆にマルデルはどーしてんのか知りてーわ。クソ痛ェ思いして何わざわざモフってんの。バカみてー」
「何言ってんの? 私はオーズへの愛で生きてるッ! 見ろよこのビビるほどイケてる男を。攻めてよし守ってよし、レイヴンの殴りフォトとはオーズのことだよ! これを愛さずにいられるか!? 死ぬほど生きてたいから死ぬわけねーだろっ」
 酒の勢いでテーブルを叩きつつマルデルが何やら力説し、オーズはもっと言えと続きを催促した……何この夫婦。のろけかよ。のろけ劇場かよ。エリゼは何だか自棄酒を飲んでいる気分になった。
「こんないー男を放ったらかして死ねるわけねーっつーの。だって――ギノロットも奥さんいるんでしょ。そーゆーの思い出さねーの?」
 首元を指差しながらマルデルが言うと同時に、エリゼは空気の凍りつく、ぴし、という音を聞いた気がした。
「おく……何それ初耳、奥さん? 妻? それって、言うところの、ええっと……細君ってやつ?」
 半笑いになったブレロが片言みたいな喋りになって、それからエリゼが止める前に壊れた。
「なんでそういうこと始めに言わないんだ? え、俺そんな信頼されてなかったの? 嘘だあ、冗談だろ。そんなの今まで一言も聞いたことない。そんな素振り見たことない。何だそれ、普通話すだろ。なんで秘密にするんだよ、ちょっと待て説明しろ?」
「先輩も待って落ち着いて、みんな困ってるから」
「えっ、ちょっと待ってギノロット。そこまで言ってなかったの?」
「なあギノロット、水臭い真似はなしとか言ったあれは何なわけ? お前自身のことは何だろうがいいっていうのか? それは聞き捨てならねえよ。頭にきた。はっきり言うまで俺は譲らねえぞ」
 立ち上がる勢いのブレロを、エリゼとオーズは何とかなだめようとした。かわいそうなマルデルが一人おろおろして、レリッシュは目だけが生きた彫像みたいになっている。
 ギノロットは、案外、態度を変えなかった。だが表情は明らかに固く、誰とも目を合わせず、言葉も色がなかった。
「もう死んでるから。三年も前に。故郷と一緒に」
 ただ事実だけを淡々と読み上げるみたいな言い方が、むしろ彼にとってどれほどの事実なのか、エリゼたちは突きつけられていた。
「忘れたくないからつけてただけ。いられるような気がしたから。でも死んでる。秘密のつもりじゃなかった。言えなかっただけ」
「――あのうわ言はそういう……」
「それでもう、話さなきゃいけないと思った。ここにいたら、マルデルが言えって怒ってくれる、だからここ選んだ。……台無しにしてごめん、マルデル」
 すると、マルデルは黒い瞳にみるみる涙を膨れ上がらせ、ギノロットの首に抱きついた。
「私は薄情者かよ! いま頑張って話そーとしてんだろ!? 怒るわけねーだろ、バカ! 私こそお前の傷えぐってごめん。ごめん……ギノロットはよく……ごめんね。ごめんっ!」
 酔っぱらいは感情の振り幅が大雑把に大きかった。ギノロットは慌ててマルデルを引っがそうとするが、マルデルに頭を撫でくり回されてただもがいた。嗚咽を漏らすマルデルと、そのマルデルが面白くて大笑いしているオーズで、ギノロットの決死の告白はもう滅茶苦茶だった――エリゼはハッとなった。ここはコメディリリーフ・エリゼの出番だろ! ぶっちゃけろ、私!
「ねぇギノくん聞いてっ! 私キミのこと、初めて見たときから童貞が皮被ってるみたいな顔してるって思ってた! ごめん謝る、ごめん許して!」
「バカタレ、ひでーことサラッと言ってんじゃねーよ、つーか今関係ねーだろ! オーズ助けて。やめろ、人の頭振るな!」
「……わたしにはちみつ酒をください」
「僕にブランデーをください! ねぇエリゼ、お願いエリゼ、僕シラフじゃいられない。何なのこれ? 一体俺の銀の稲穂団はどうなればいい訳、ねえ?」
 凍結した銀の稲穂団はガタピシいいながら息を吹き返した。エリゼは一安心したが、ブレロはしばらく使い物にならなくなった……仕方がない、この人は城塞騎士らしく被害を担当したのだ――リーダーにマテと言いつけてエリゼは、ブランデーとはちみつ酒を求めて席を立つ。
 と、ルーンマスターの集う席にいたはずのニョッタがいつの間にかやって来て、エリゼの裾を捕まえた。エリゼにはわからない印術トークで熱く盛り上がっていたニョッタだが、さすがに騒ぎが気になったらしい。ハンナは向こうでダーツのスターになっている。
「ねえ、どうしたの?」
「聞いてよ。ギノくん、既婚者だったんだよお」
 ニョッタの澄んだ綺麗な声にホッとして、エリゼはヨロヨロの疲れた声が出た。
「しかも相手は亡くなっていたっていう、もう、とんでもないやつ」
「えっ。何それ?」
「衝撃でこっちが死ぬかと思ったよお。びっくりしすぎてレリちゃん暴れかかってるの。助けてニョッタ」
 親友ニョッタはすっ飛んでいって、レリッシュを店の外まで連れ去っていく――とりあえずこれ以上の混乱は防げそうである。カウンターではマスターが苦笑いしながら薄めの水割りとはちみつ酒で待っていてくれて、エリゼは礼を言って戻った。飲む者のいなくなったはちみつ酒もとりあえず手にして。
 席ではジョッキが空っぽになったブレロが、やけくそでピラフを掻き込みつつギノロットを詰問しているところだった。何だかんだお坊っちゃんらしいこの人が、行儀悪く食べながら話すのを見るのは初めてだ。エリゼは薄いブランデーを差し出した。
「どうぞ、先輩」
「聞けよエリゼ、こいつ結婚したの五年前だって。十四だぞ十四」
「うっそ! どんな包茎顔で結婚したの?」
 ブレロがピラフをむせた。いいね先輩、いい感じ。
「どんなって、普通に」
「ギノロットくらい南はそいつみてーに婚姻の印を下げてんの。だからこいつが南洋のやつだっての、すぐわかったんだけど……」
 マルデルが口篭もったので、ギノロットはジョッキから口を離す。
「……普通、年イチで、取り替えてもらう。これは交換できてねーから、すげー古い」
 またしても重たい事実を振り放った。そのあまりの気遣いのなさに、きっと相当な捨て鉢な気分なのだろうとエリゼは察した。
「毎晩欠かさずお手入れしてるもんな? 女子のお肌かよ。それで一回、妖精の弓の弦通してもらったことあるの知ってた? お前とんだクソ野郎だな。土下座しろよ」
「えっ何それギノロット、やだ、引くわ」
「だよな、どんな言い訳あっても通用しねえよな。やっぱり俺はお前を潰す」
「違っ、さすがにそれはもー換えた、革紐だろ今どー見ても」
「うるせえ黙ってろよ。すいません! ブランデーをダブルでください!」
「レリは関係ねーだろ! ブランデーいらねーから、ごめん!」
「うるせえよ、俺の妖精をもてあそんだ罰だ。飲みやがれ馬鹿者。くださあい!」
「人聞き悪ィこと言うなっ、もてあそんでねーよ! いらねーから!」
「知ったことか、お前なんか飲みすぎて記憶を失えっ」
 エリゼは空気を読んで、はちみつ酒をギノロットの目の前にガンと置いてやった。エリゼだって多少は可愛げのあるレリッシュの味方だ。思い切って立ち上がり、ドスを利かせて言った。
「私の酒を呑みな、ボーイ! レリちゃんがあんなにキミの後をついて回ってるのに、気づいてないとは言わせないぜ」
 やんやの喝采が上がりエリゼはちょっぴり満足したが、
「何のこと」
 あまりにもきょとんとして言うので、マルデルとオーズが揃ってむせた。ブレロは水割りを一気に煽り、グラスを置いた目が怒っている。エリゼは目の前に信じられない南洋性なんようせい生物せいぶつを見た。
「キミはそのはちみつ酒を飲み干せっ」
「なんで」
「いいから飲めよ! エリゼさんの酒が飲めねぇってのか!」
「意味分かんなすぎて飲めるか!」
「図書館デートどうなったあ!」
「ハァ!? 違う、レリに図書館の使い方教わったやつだろソレ」
「男三人ぶらりパフェよりレリちゃんのケーキを選んだんでしょ!?」
「つーか男三人でパフェなんか食えるかよ、ふざけんな!」
「阿呆がそういう問題じゃねえよ馬鹿野郎! お前は飲めそして死ね!」
 割って入ったブレロが長い足でギノロットの脛を蹴っ飛ばし、酒の続きを求めて音高く席を立った。足音荒く去りゆく背中は怒り心頭で、ギノロットは痛みのあまり脛を抱え込んで苦しんでいる。
 マルデルが頬杖をつきながら鼻で笑った。
「ギノロットごめん、私よくわかんねーけど、ざまーみろって思ったわ。……ブレロは妖精ちゃんがかわいーのね?」
「私もざまあ。先輩は妹ができたみたいでかわいいって、レリちゃんのこと」
「オレもざまあー。妖精ちゃんのこと結構話すし好きなんだと思ってたのに、何だそれ」
「違うッ。好きとは違う……」
 苦悶の声で反論する。マルデルは好奇の笑いを浮かべてギノロットの脇腹をつついたので、彼は身をよじる。もっとやって姐さん、とエリゼは思った。
「ねーねー、図書館デートってなーにー?」
「だから図書館の使い方教えてもらった、サブルンに転向したくて。その後ケーキがどーとか……食わなかったけど」
「食ってけよー。デートしろよー」
「だって先帰るって言われた」
「えっなんで。何を機嫌損ねてんだよ」
「俺が本読んでた……から」
「バーカ死ねよクソ野郎」
「そりゃクソ野郎だ」
「今日ケーキ食って帰りやがれっ」
 オーズが長い足を駆使してギノロットの無事な片脚を蹴り飛ばし、ギノロットは両方の脛を抱えて悶絶した。