彼の空虚と辺境ノ文庫

 冒険者ギルドから少し離れてはいたが、ギノロットはそこのキャラメルミルクコーヒーが好きだった。ちょっと焦がしたキャラメルの匂いと、牛乳の甘さと、コーヒーの苦さがちゃんと調和している。飲み物だったら、男が選んでいてもまだ抵抗が薄いのがいい。ましてやポットを持っていたら、大体はお使いだと思ってもらえる。
 そのコーヒー屋の屋台は通りの突き当たりにあって、ギルドを出て角を折れてまっすぐ進めば、行き当たる。場所がわかりやすいから、いかにも冒険者といった風体の客は多い。
 淹れたての黒いコーヒーの旨さを売りにしている店ではなかった(だって屋台だから)。その分いろんな種類のクリームとか(てんこ盛りがいい)、いろんな種類のミルクとか(ココナッツがいい)、キャラメル(焦がしてほしい)とか、ナッツ(ピスタチオがあったらいいのに)とか、スパイス(好みじゃねーの?)とか、その他諸々たくさんのものを揃えている。お菓子みたいなコーヒーを飲ませてくれる店だ。
 それなのに店主が男だからか、屋台はギノロットみたいな『表立って甘いものが好きとはなかなか言い出せない』人種が近寄りやすい外観をしている。たまに行列もあるし、周囲に集ってコーヒーを楽しむ男たちもいる。たぶん、みんなここの、文句のつけようのない甘いコーヒーに慰めてもらいたいのだ。
 今日は少し前を、帝国騎士の男が二人、それぞれの手にポットを下げて歩いていた。何を話しているのかはさすがに聞き取れないが、同じ店を目指しているに違いなかった。
 病院から外を眺めていて分かったが、このごろは帝国の人間らしい姿も増えた。特に騎士たちは黒い制服で歩いているから、タルシスにいるとよく目立つ。
 最初こそどこか物々しい雰囲気で街の隅を歩いていたのだが、いつしか彼らの緊張も解けたらしく、歩調からリラックスした感覚が分かるようになった。制服を着崩す兵士もたまに見かける。鎧で闊歩する者はほとんど見かけなくなったという。
 ここに年中吹く風は、緊張とか真面目とかの堅苦しさを、知らないうちにどこかに連れ去っていってしまうらしい。ギノロットはタルシスをそういう街だと思っている。いつどこを歩いていても花が咲いている街なんて、初めてだ。花を育てる人間がどこにでもいるという意味でもある。タルシスの人間の心は、豊かなのだ。
 前を歩く二人の帝国騎士は、両方とも背が高かった。一人は黒髪、一人は銀髪。対象的な組み合わせで、黒いほうは背筋を伸ばしたいい歩き方をしているのに、銀色は何だかくにゃくにゃで猫背みたいに見える。猫背のほうが身振り手振りで一方的に喋っていて、黒いほうが聞き役だ。ひょっとして猫背が上司なのだろうか、制服の着崩れ方が一層ひどい。あまりいい上司ではなさそうだ。
 二名は先に屋台に辿り着くと、店主の雰囲気が明るくなって、雑談に花が咲き始めた。騎士は常連らしい。
 ――帝国のやつも常連になれる店ができたんだ。
 それはたぶんよいことなんだろうとギノロットは思う。帝国の連中はどいつもこいつも寄る辺ないような心もとないような、不安を抱えた人間の目をしている。でもこの呑気なタルシスに居場所ができたら、そんな思いをすることもきっと減る……タルシスに来て一年も経たないが、ギノロットはそう理解していた。どうかすると自分がどこから来たのか、本当は根無し草であることさえ忘れているくらいに。嫌な夢を見て目を覚ますことは減った。
 ギノロットも店に到着し、二人の騎士の後ろに並んだ。
「……で、今日は何にするんですか?」
「キャラメルミルクコーヒー、六人分頼むね」
 店主の問いかけに、銀の髪はそう答える。それから店主が目配せしてきて、あなたは、とこちらへ問いかける。
「俺も同じの、三人分欲しい」
 ギノロットが言った途端、目の前の帝国騎士は勢いよく振り向いた。銀髪のほうである。眠たそうな赤茶の目に見覚えがあった。
「あ、」
「その声、やっぱり君かギノ! よかった、思ったよりも元気そうじゃないか!」
 何より、何より! 上機嫌な銀髪の騎士はギノロットの肩をバシバシ叩いた。痛い。やめてほしい。
 だがギノロットの頭からは彼の名前がとっさに出てこない。だがその名前を、思い出したいけれどそれっぽい音が浮いて出てきては違う気がして頭を振った。ほら、あの、なんつったっけ、えーと、
「ルー、じゃなくて、」
「おっ? あるあるあるよなそういう現象、それ何なんだろうな? ガンバレ」
「あー、あの、ワーじゃなくて」
「うん、ワーでもないな。でもある意味近くなってきたよ」
 ルーでもワーでもないがワーに近い男はニヤニヤ笑いながらギノロットの回答を待った。ギノロットは頭を抱えてもがいた。何かが脳裏に閃く!
「ロ……ッ」
「おおっと!?」
「――ローゲルウィンド!? あ絶対違う……!」
 ローゲルウィンドは噴き出した。
「当てて外してきたぁ!」
 ギノロットの珍回答をうひゃうひゃ笑いながら派手に膝を叩いて大喜びしたが、隣の黒髪の騎士はひどく困惑した様子で二人を見守っていた。上司とギノロットを繰り返し見てはおろおろしている。
「俺はローゲル、ローゲルだ! 初めて会ったときはワールウィンドと名乗ったよな。この際ローゲルウィンドでもいいけどさ、頼むよ銀の稲穂団。浅からぬ縁だろ?」
 地図書きを教えてもらって、諸々を経て、殺し合って共闘した。浅からぬ縁があるのは確かなことだ。認めるが。
「えと……いつになくテンション高いけど」
 結局当てきれなかった徒労感で、ギノロットはややぐったりとなる。ローゲルはよく聞いてくれたと嬉しそうにした。
「いやね、俺もう久しぶりにタルシスに戻ってきて楽しくてたまらなくてさ。この空気の温かなことといったら馴染むこと馴染むこと!」
 今にも踊りだしそうなほど感慨深げなヒゲ男である。 
「人生の三分の一はここで暮らしていたんだぜ? 冒険者の生活もあったし、いやあ嬉しくって、誰かに会えたら面白いんだけどなーって思ってたら君がいるじゃないか! 本当に君らとはつくづく縁があるらしい。な、君もここのコーヒー好きだろ? 俺もなんだよね、ギルドの帰りにしょっちゅう来たもんさ。キャラメルだよやっぱり、キャラメル! 一人で疲れて帰ってきて、何にもいいことなかったなぁって日はキャラメルミルクのコーヒーしかないだろ! わかるわかる!」
 黙って聞いていたらそういうどうでもいい話を長々としゃべり続けている。黒い男はもうどうしようもないと理解したのか静かに背筋を伸ばしていることに決めたらしい。ギノロットはちょっとたまりかねて口を挟もうとしたが、
「いやはや、もうずっと帝国あっちで報告とか経過とか現状とか何やかんやあれやこれやナントカ会議に出ろとか出るなとか証言しろとかしないとかどうでもいいから給料上げてって言ったら桁ひとつ増えちゃってもう訳わからなくって泣けるやら笑えるやらで吃驚仰天、逃げるみたいにタルシスに来たわけさ! ほんとに聞いてくれよ!」
 聞いてくれを最後に言うな。病み上がりの何かに響く。ギノロットはうんざりした。
 タルシスに染まるとローゲルみたいなやつでもみんなワールウィンドになってしまって、つまらないことをべらべら話したがるようになるのだろうか。ひょっとして俺は、南に帰ったほうがいいかもしれない? ギノロットが遠くを見つめ始めたとき、やっとローゲルは隣で彫像みたいになっている連れ合いに気がついて、多少はかしこまった声で話し始める。
「お前にも紹介しておかなくちゃな。彼が『銀の稲穂団』のメンバーの一人だ。若造ながら物理担当さ。根性あるぞ。なっ、ギノギノ」
「いやだっ! その変な名前やめてくれ!」
 ギノロットはほとんど悲鳴みたいな声を上げた。延々と無意味な話を聞かされた挙句ヒゲのだらしないオッサンに変な名前で呼ばれたくない! だが悲鳴は黒い男には届いておらず、表情の失せた顔のまま機械のように会釈した。
「初めまして、銀の稲穂団のギノギノ」
「ちっがあぁあう!! ギノロット! 銀の稲穂団のギノロットおー!」
 このままじゃ本当にギノギノになる! たまりかねて咆哮くらいの叫びを上げたら、男はショックを受けてやっと目に光が戻る。隣でローゲルはゲラゲラ笑った。
「これは失礼をギノロット! 帝国騎士の末席エドワルドと申します。どうぞお見知り置きを」
 礼儀正しく握手を求められ、ギノロットはようようそれに応じた。手の感触も何も分からなかった。
「よろしくな……」
 かろうじて、返事をした。エドワルドの目には何か同情めいたものが浮かんだ気がして、互いに何か通じ合うものが生じた。
「もっと屈強な方々だと想像しておりましたが、剣士が少年だとは。さぞかし鍛錬を積んだとお見受けします」
 少年と言われるほどの歳でもないが、実年齢より子供っぽく思われることはこちらに来てままある。語彙が貧困なのは自覚がある。
「……鍛錬とかは分かんない。大体、現場で何とか」
「うん? では我流で?」
「教室とか座学とか苦手だから。型はちょっと聞いてるけど」
「それは驚いた! よくぞ木偶ノ文庫を攻略された。揺籃の守護者は難敵であったろうに、素晴らしいことです」
「ローゲルいたから。でも……やんなきゃしんどいし、今からでもちゃんとしよーかなって思ってる。木偶ノ文庫はいろいろ困ったから」
「よく言うよな。君のリンク、何だかんだ使えただろ、何が苦手だよ。君アレだ、どうせ迷走してるんだろ? それならリンクソードマン目指せよ。ルーンマスターとスナイパーがいるんなら、君とリンクで激しく繋がってそれはそれは気――」
「やめろ、なんかその言い方が滅多やたらと気持ち悪ィ」
 怖気が走ったのでとにかくさえぎった。
 黒いエドワルドは目を見張ってこちらを見ている。隣でローゲルは自分のことのようにニヤニヤしている。
「な? これが冒険者ってやつさ、すごく普通だろ? 面白いだろ? 銀の稲穂団に会えてよかったな」
 言ったろ、このあたりなら誰かしらいるって。ローゲルは鼻高々だ。すると、
「はい、まったく恐れ入りました」
 エドワルドは几帳面そうに頭を下げる。真面目な男だ。ギノロットはむず痒く思いながら、悪い気はしなかった。
 と、先に三人分のコーヒーができあがり(気を遣ってくれたのだと理解した)、温かくていい匂いのするポットがカウンターに現れる。ギノロットはポットと蓋にまだ生半可な『おまじない』をかけ、それじゃあ、と二人に言った。
「ギルドであいつら待ってるから。じゃーな」
 ローゲルがへらへらと手を振る隣で、姿勢の正しいエドワルドは再び丁寧に頭を下げた。上司がアレだと苦労しそうだ……首飾りのサメの鋭さを確かめ、ギノロットはようやく自分を取り戻したような気になった。何だかちょっぴり頭痛がする。

 やっと会議室へ戻ってきたギノロットにお帰り、とワイヨールとレリッシュが声を掛けると、彼は疲れた顔をしていた。なんと表でローゲルに会って絡まれたというのである。絡むというような人物だと思っていなかった二人は、互いに顔を見合わせた。
「それは久しぶりですけど……絡まれた、って?」
「出張? それとも赴任みたいな?」
「聞く暇なかった」
 一方的に喋りまくられているところを逃げるように帰ってきたというので、そんな当然の話さえしていないという。
「あの人そういう人だっけ」
「違うと思います」
「ねえ?」
「や、俺の言葉のせーもあるけど……」
 タルシスの言葉はギノロットにすれば外国語だ。たとえ病み上がりでなくとも、立て続けの早口を聞かされ続けるのは難しいし、すでに一日分の話を聞いた気がする――などと、そんなぼやきがこぼれ出てきた。よほどに絡まれたのだろうと苦笑しながらワイヨールは察した。とにかく座りなよ、と着席を促したら、よろめくように着くなりテーブルに突っ伏してしまった。ポット係は皆にポットの中身を振る舞うところまでがセットであるが、全面放棄の姿勢である。
 ぐんにゃりしている男さえ可愛いレリッシュがポットを引き継ぎ、冒険者ギルドからポットと一緒に借りられるカップに、トポトポ注いだ。甘くて優しい少し苦いキャラメル味のミルクコーヒーがギノロットにも与えられ、三人して温かいコーヒーを飲んだ。
「そういえばギノ、『おまじない』できるようになってきた?」
「やった。熱いだろ?」
「うん、熱々だ。結構やるじゃないか」
 キャラメルのコーヒースタンドはギルドからちょっと距離のある場所だ。ギノロットの学習意欲はなかなかのものだとワイヨールは感じていたが、内心では『おまじない』まで達していないと思っていた。何しろおまじないと呼べば益体もなく聞こえるが、熱を操作するというと実際は思うより高度だ。誰の耳にも理解できるように言っているだけで、あるいは『熱の聖印』と呼んでいいのかもしれない。
 唇の先で熱さを確かめながら、レリッシュは自分のことのようにニコニコと微笑む。
「すごい。ワイヨールと同じおまじないですか」
「や、自分で。病院とか宿の飯で練習したから、自信あった」
 ギノロットは得意げである。なるほどすでに自習済みとは、『おまじない』も常から披露しておくものだと、ワイヨールは自らのささやかなる日常の正しさを再確認できた。とともに、ワイヨールにとって弟子とも呼べるギノロットにちょっと目を見張って、彼の空虚はそれほどまでに彼を苛んでいたのかと胸が痛くなる。
「自分で内容を考えるのに意味があるんでしたっけ」
「そーっぽい。分かる気はする。借り物だとあんまうまくいかねーの。手紙書く感じなのかも。書いたことねーけど」
 言い得て妙だとワイヨールは頷き、印術を知らないレリッシュはぱちくりした。
「言葉と心の世界だからね。きみには今まで欠けていた世界だ」
「ちぇっ、言いやがって……しかもホントのことだし」
「おや、自覚あるのか」
「別にあっちじゃ苦労しなかったよ。近いよーな遠いよーな感じはこっちだとずーっと」
 そのぼやきにワイヨールは、知ってはいたが気づいていなかったことを教えられた気がして、病院で印術の教科書片手に昏睡かと勘違いされるほど眠り倒していたギノロットの姿を思い出した。当然にその教科書も外国語なのだ。案外人並み程度の知性を持つギノロットだが、外国の言葉で四六時中頭をフル回転させていると思うと、一事が万事『近くて遠い』のかもしれない。寝言の一つくらい、南の言葉でよかろうものだ。
「言葉の壁……難しいですね。覚えるしかないし」
「新聞くらいは読めるけど、読む気になるもの少ない。政治とか経済とかどーでもいーもん。なんかない?」
 それはなるほど、タルシス市民ではない彼には確かにどうでもよい事柄ばかりだ。ブレロはちょくちょく開いているが、彼以外にとっては包み紙として重宝することが多いものだし、ワイヨールもあまり興味がない。となれば、
「じゃあ、詩はどう?」
「詩?」
「短文読めよ。共感できて、時々難解。きみにちょうどいいじゃない。そんで印術に応用すると便利よ」
 ルーンは表現だから、印術師に呪文詠唱派はとても根強い。層が厚いので初心者にも取りかかりやすい。作例にできる詩や歌はいくらでもある。ワイヨールも昔よくやったし、今でも好きだし、部分で取り込んでいる。何より詩を考えて口にするという行為は、童心に返る気がして楽しい。童心に返りすぎて過剰装飾性術式を考えるのは誰でも通る道だ。しかしギノロットはなかなかピンとこないようで、うなって腕組みしてしまった。
「なんかお勧めねーの」
「それは難しいな、だって何でもお勧めだよ?」
 常日頃から身の回りにあるものは何だって印術に繋がりうる無限の泉だ。そういうワイヨールにとって何か一つを選べと言われると難しいので、ギノロットのそこそこの賢さを頼みにちょっぴり丸投げすることにした。
「何なら図書館行ってみたら。お金かからないのに選びたい放題よ?」
「お。何それ。選び放題って」
「木偶ノ文庫の安全版だよ」
「ぐえ。やだそれ!」
 ギノロットの口元が思い切り引き攣って、乗り出しかかった体も露骨に引いた。言ったそばからワイヨールは若干後悔した。その反応は正当かもしれない……ギノロットの首飾りがきらりと光った気がした。
「でもさ。迷宮っぽくはあるけど武装いらないよ? ホント何もないよ。あ、いや本しかないよ」
「やだ行かない」
 子供っぽく言い張るギノロットである。やっちゃった、と思ったら、先にレリッシュが業を煮やした。そういえば最近忘れていたが、彼女は少々気が短い。図書館ユーザーのレリッシュとしては我慢ならないのだ。彼女はかなり頻繁に本を読んでいる。大衆小説の類だけれど。
「もう! ギノさんいいですか? 武装はいりません。怖いお人形もいません。絶対燃えないし死にません。せっかくワイヨールが言ってくれてるのに」
「やーだ」
 そしてギノロットは強情であった。レリッシュが露骨にムッとするのを、ワイヨールは見た。
「そんなに怖いならネクタルでも持っていきますか? また飲ませてあげますから。ついていってあげます」
「……いやに言うな、お前」
「だってモモとマドカがお勉強に通えるところですよ? 怖いわけありません」
「そっ……それを最初に言えよ。木偶ノ文庫なんて言うから」
「嘘。本気でおっかながったくせに」
「あんな。木偶ノ文庫行きたい俺がいたら会ってみたいっつーの!」
「だって、街の中に木偶ノ文庫があるわけないです」
 ぴしゃりと言い放ち、彼女の矢が美しい直線を描いて突き刺さったのがわかった。すごい正論。本当だ、あるわけない。当たり前すぎて何も言えない。ワイヨールは笑いたくなる口元を隠した。
「図書館でお勉強できたら、マドカおすすめのケーキ屋さんを教えます。疲れた体にと……ってもおいしいです」
 その上追い詰めておきながら何かよさそうな追撃を加えるではないか。ギノロットの甘い物が食べたい欲求を見事に押さえにかかっている。食べたい本人の顔を見れば効果は明らかだ。レリッシュの攻勢は時々すごい。だってそれってデートじゃん! 面白くなってきてワイヨールはついに口を挟んだ。
「なあギノ、男三人ぶらりパフェとどっちがいい?」
 レリッシュの怒り気味の目線と、ウキウキワイヨールのメンズパフェコールの間で、当惑顔のギノロットは言った。
「け、ケーキだろ……」
 ワイヨールは残念がるふりをしながら、内心で大喜びした。

 タルシスは今日もよく晴れている。毎日毎日、晴れの日ばかりで気が沈まなくていい。たくさん洗濯物があったってよく乾くし、雨の日に出かける必要だってない。だって雨が降ったら次の日に改めればいいのだ。
 とはいえ今日のギノロットはちょっと憂鬱だった。レリッシュがどんな顔でやって来るんだか分からない。死にかかっても木偶ノ文庫に行くのが楽しみになる方法があれば、むしろ知りたい。
 学校の多い通りのとある街角で、レリッシュと待ち合わせていた。ベンチで足をぶらぶらさせながら待っているが、日差しを浴びていると眠たくなってきてしまう。まるで干された洗濯物の気分だ。降ってもいないどしゃ降りのせいで、明日以降に改まりたい。
 印術の教科書を読むようになってから、ギノロットは異様に眠たかった。元々眠れないからありがたいのはありがたいが、どこでもここでも眠たいのは困りものだ。出かける予定がある日には、ほんの少しだって読んではいけない。今日はまだ一文字も読んでいないのに、昨夜読んだ数ページが尾を引いている。
 早く来ないかなと思っているようないないような、いっそベンチに倒れて眠ってしまいたいような、うつらうつらしながら待っていたら、レリッシュは時間ぴったり、鐘の音とともに現れた。今日もスナイパーみたいな格好をしていた。
「なーんだ」
「人に会うなり……なんだって何ですか」
 肩から鞄を下げたレリッシュはさっそく口を尖らせた。たくさん何かが詰まっていそうな大ぶりの鞄は、彼女が動くと錘のように緩慢に動く。ギノロットの気分とちょうど同じだ――大あくびが出て、涙のにじんだ重い目をこする。
「妖精のやつじゃねーなと思った」
「あれは靴が固いので……だって迷宮並に歩くかもしれませんよ?」
「ふーん、そんなに」
 ギノロットは無感動に応答しただけなのだが、レリッシュは深々と頷く。
「図書館は迷いの森ですから。行きましょう!」
 彼女はギノロットをやや置いてきぼりにしつつ、意気揚々と歩き出した。なるほど図書館が好きらしく、黒髪の尻尾が機嫌よさそうに右に左に揺れている。図書館というものが完全に木偶ノ文庫に置き換わっている身としては、その気が知れない。
 ポケットに手を突っ込みながら、レリッシュの後をついていくことにした。だがふと、またこいつ、どこかで転ぶのかな、と思うと、その重たそうな鞄が目についてしまった。
「それ持つか?」
「大丈夫です」
 こちらに目を合わせてテケテケ歩くので、ギノロットはやや不安になったが、彼女はコケなかった。ひょっとして、毎度重たい鞄を持たせてやったら転ばないんじゃないだろうか。迷宮でも転ばないから、矢筒でもいいかもしれない。きっとバランス悪いんだろうなこいつ、塀の上とか縁石の上を走って渡れないタイプだ……ギノロットはぼんやり考えた。自分でも分かるが、眠さに加えて逃避気味である。しばらく歩けば目が覚めるだろうが、太陽の光が背中に当たってなかなか気持ちがよい。歩きながら眠れそうだ。
「ねえ。ケーキのことでも考えてみたら?」
「あー、それだ。何のケーキがうまいの」
 察したレリッシュが水を向け、眠たい声でギノロットは聞いた。
「フルーツケーキが一番好きだけど、何となくギノロットスペシャルに近いケーキもあったかも」
「何だっけ、それ。なんか聞いたな」
「生クリームにイチゴ乗せまくったやつ、ですね。スイーツパーラーごっこしたいな、っていうときの話」
「おー、それか。それ食べたい。生クリーム食べたい」
「生クリームが特に好き?」
「生クリームだけでも延々食えるわ、たぶんな」
「そんなに? スイーツパーラーごっこができないのが残念ですね。ワイヨールの脱臼、早く治らないかなあ」
「……つーかさ。生クリームって作るの難しーの?」
 自分で作ってしまえば彼に頼む必要もなくなるだろうに――何とはなしに言ってみただけなのだが、レリッシュはすごいことを聞いたと言わんばかりに鋭い反応を返した。
「ねえ、それ調べてみましょう! わたしも知らない!」
 急にぐいんと向き直るので、鞄が思いきり振られて彼女は勢い体勢を崩した。そうくるのかよ! 咄嗟にギノロットが一歩踏み込み肩かけ紐をふんづかまえて、レリッシュは半分ぶらりと吊り下げられた。バランスを取ろうとした長い両腕が回りかかって止まる――まさかこの間習った突剣の足捌きを使うとは思わなかった!
「バカタレ。どーして迂闊なんだよお前はよ」
「すみません、気をつけてはいるんですが……」
 爪先立って、首根っこを取られたネコみたいな姿勢であった。鞄の紐にほとんど全体重が乗ってとても重たかったので、ギノロットはよいせと下ろした。「よいせ」の声が必要な程度には重たかった。急に酷使した筋肉が変に痛んで、一過性だろうが変に張るので、彼は腕を振ってそれを散らそうとする。
「今日この先ホントに大丈夫かよ」
 よそ見すんなの警告とともに結局は鞄を取り上げて、気を取り直して歩みを進める。少しは目が覚めたのでそこだけはよしとして。
 しかし兎にも角にも、ギノロットはやる気がない。が、やる気のなさはそこまでだった。

 タルシスの文庫は木偶ノ文庫よりも遥かに静謐だった。音の響きだけで、空間が遠くまで広がっているのが一瞬で分かる。人の姿は見えるが、誰も何も言わない。それがルールであることはさすがのギノロットも察した。
 奥に向かって本棚が何枚もの壁をなしていて、さらに左手は天井まで本に覆い尽くされている。しかし幾本かの通路が空いていて、恐らくはその大壁が一枚でないと推測した。空気の流れに乗ってくる古い紙とインクと埃の匂い。衣擦れと遮蔽物に吸収された靴音、たまの咳払い。そして右手にカウンターがあって、職員たちが黙々と事務手続きをしている。
 ギノロットの中の迷宮感覚が急反応して、施設の構造を把握しようと脳を回転し始めた。思いの外広い。迷宮並に歩くというのは間違いない。マッピングしないとヤバい。今日のマッパーは誰だ。いや紙がない。嘘だろ。やめろよ。親切な地図書きおじさんはどこにいる?
「魔物いないだけなのに超違わねーか」
「だから言ったでしょう?」
「木偶ノ文庫って言うからだ!」
 まだ入口から様子をうかがっているだけだったが、二人はすでにコソコソと話をしている。明らかに声を出すのがはばかられる雰囲気だ。病院でも騒ぐなと言われるが、あんなのとても比ではない。騒いだらきっと無言で蹴られて視線で刺される。ギノロットは確信した。この施設は迷宮ではないが迷宮に限りなく近い。
「先に返却させてくださいね」
 レリッシュは慣れた顔をして一歩踏み出した。ギノロットはどきどきしながら後をついた。
 静かに歩かなくてはいけないというのもなかなかに注意が必要で、ギノロットは幾分か緊張を増した。眠気なんて完全に飛んだ。痛いような沈黙が下りていて、事務に必要な何かしらの会話でさえも耳障りにさせるのは驚きだった。
 レリッシュは慣れた手つきで本を返却担当に差し出した。ギノロットは大きな鞄から次々本が出てくるのを見守った。職員によって本は軽く検分され、『個人票』なるものをレリッシュに差し出し、手続きは終わった。
「それ、何?」
「これともう一つを使って借りるんです。後で教えますからね」
 レリッシュは身を翻し、ギノロットは黒髪の尻尾を雛鳥のように追いかける。と、入口そばの柱に戻っていって、彼女は見て、と指を差して微笑んだ。
「親切な人が地図を見せてくれてます」
「完璧じゃんか。ワールウィンドはどこにでも現れるな」
 どこに何の本があるのか細かく記されている。ギノロットの戯言にレリッシュはくすくす笑う。
「生クリームのレシピってどこでしょうね」
「……探しきれねー。いっぱいある。『風俗習慣』?」
「……あ、『家政』。お家、これかも」
「家か、ぽいな。行こう」
「行きましょう」
 そんなこんなで二人は都会の迷宮に踏み入った。いくつもの通路を通り、書架を過ぎ、ちょっと気になる表題は努めて見ないふりしながら、『家政』はやや奥まったところに居を構えていた。生クリームの作り方はとてもあっけなく見つかり、せっかくなのでスポンジケーキの作り方も探し、何となく理解して、ふたりは満足した。
「なーこれ、繰り返してったら何でも分かんじゃねーの?」
「そういうことになりますね、本の限りは」
「やべーな、マジで迷いの森だ!」
 本日の本命である詩に関わる書架は、地図を見たときにレリッシュがしっかり記憶してくれていた。まだまだ奥の『文学』付近が怪しい。二人は足早にそちらを目指した。ギノロットは走り出したい気分だったが、レリッシュがそれを止めた。足音を立てれば誰かが遠くからでも一撃を食らわせに来るだろう。本が絶対的地位を治めるこの空間では、人間は本に従わなくてはならない。
 果たして『文学』には大量の資料があった。一見して意味の分からない変な表題がたくさん納められていて、どれでも怪しい。レリッシュが適当な一冊を手に取ってめくってみたが、それは詩でなく解説だった。
 ギノロットの文字を読む能力にはまだ限度がある。あまり無駄遣いすると肝心のものに辿り着けない可能性があるだろう――うーん、とレリッシュはうなった。
「待って。もっとどこかに固まっていそう」
 彼女はきょろきょろとあたりを見回し、やがてそこを見つけた。ギノロットはやはり適当に一冊を手に取った。指先がペラペラめくって、心の中で誰かがストップと言ったので、たまたま止まった二一六ページを何気なしに読んだ。
「……」
「どうしました?」
「ちょい待って」
「はい」
 何だかおかしい、とギノロットは思った。神経を逆撫でされている気がした。ギノロットはそんなに人に自身の話をした記憶がない。少なくともタルシスに来てからはずっと。限られた人物に限られたことしか話していないし、分かってもらおうという気持ちを持ってはだめだと考えていた。人に託すにはあまりにも辛い記憶で、きっと相手が耐えられない。
 なのに、この本を書いた人間は一体何を考えてわざわざ『それ』を他人に教えるんだ? それは俺が誰かにも言えなくて仕方なくて、最後に自分を殺しかけたものじゃないか。誰かに助けてもらわないと、自力で立てやしない俺自身じゃないか。
 ギノロットはページをさかのぼった。一八九ページ、お前たちも知っている。あらゆる関節を逆さまに折って動かなくなるまで殴り飛ばしてから、海の藻屑にしてやりたい。ざまを見ろと言って笑って夜の沖に投げ捨ててやる。死んでしまえ。二度と面を見せるな。
「……」
「……ギノさん、そろそろ何か」
「俺、ここで沈むかもしんない」
 一三六ページ、これも知っている。それは少し懐かしくて、結構楽しい。時々心底頭にきて、あるいはひどく落胆させられて、でもひとしきりするとやっぱりそこへ戻っていくのだ。触れるとほんのり温かくて、涙が出そうなことさえある。小さなころから一緒だった。そう簡単に見放せるものではない。だってお帰りと言ってくれる。
 七四ページ。……お前は少し図々しい。何を好きこのんで居座ろうとするのか知らないが、どうせならもう少し大声で話をしてほしかった。そうでなくてはこっちも居場所が定まらない。そのくせ気を惹くのだけは上手くって、やきもきさせられるばっかりだ。
「……ギノさん。もう少し詳しくお願いします」
「俺、ここ住めるわ」
「理解できました。何冊か借りる? 今読む?」
「読む」
「じゃ、確保して席に着きましょう」
 ギノロットは真剣な顔をして手近な本を片っ端からさらっていった。もはや何でもいい。言えるのならば、教えてくれ。俺が何とか片づけておきたいすべての出来事に言葉を与えさせてくれ!
 本の作者は、どうかしている。

 そうやって彼は全世界を放ったらかして黙々と読んだ。たまにわからない言葉があるので辞書も片手に置いて、一心不乱に読んでいた。ページを行きつ戻りつしては、しきりに考え、そして進む。
 ギノロットの様子にどこか既視感を覚えたレリッシュは、考えてみると、それは迷宮を踏破しようとする冒険者とそっくりなのだった。
 街に戻ってもこの人は冒険者なのだなあなどと、隣で小説を読みながら、ギノロットの落ち着くのを待っていたが、そんな時は来なかった。正午を知らせる街の鐘が聞こえても本を置かなかったので、レリッシュが肩をつつくと、それでようやく、うるさそうな視線で彼女を見た。
「お腹が空きました」
「うい」
 それきりである。そのまま続きに目を戻し、勝手にしろと言わんばかりに動かないので、レリッシュは諦めた。
「帰ってくるまでここにいてくださいね」
「ん」
 かすかに彼が頷いた瞬間に首飾りが光を放ち、そしてまた元に落ち着く。ギノロットはページをめくる。視線が移ってまつ毛が動き、解釈に迷ったのか指先が唇に触れた。図書館の広く遠い空間のどこかからかさつく雑音がただ聞こえた……一応言ってみただけだが、ギノロットがいなくなるわけはなかった。
 レリッシュは席を立ち、図書館を出た。街の光は明るく、木々が秋の風でさざめいていて爽やかだった。
 想像していなかった展開に、レリッシュは腕を組んで考える。今日は解散したほうがあの人のためになるのかも、などとそういったことを。ケーキの話をしても動きそうにない。貸出の手続きだけはついていてあげて、後は本人に任せておいたらそれでよいのかもしれない。
 もちろん、当然、がっかりした! 甘いものを頬張って笑う好きな人を、見たくないわけがない!
 ケーキの話は本当にただの勢いであったけれど、ワイヨールが意味ありげな目をして笑うから、そこではっとなった。言われて(いないけれど、そういう目線をされて)みれば、確かにデートだ。
 ……しかし気づかされると、怖気づいてしまって綺麗な服なんて着られない。ギノロットを真っ赤にさせたあのワンピースなんて、結局どう頑張っても袖を通せなかった。
 なのに出会って妖精じゃないと言われてまっすぐ胸を貫かれてしまって、重たい鞄もさっさと取り上げられてしまい、もしかしてやっぱり意識してもらっているかもしれないとこっそり嬉しくなって、図書館あたりには雰囲気のいい喫茶店やレストランがいっぱいあるから、どこへ入るのもきっと楽しいだろうな、なんて妄想をしていたら、嬉しい気持ちはギノロットの手で木っ端微塵になった。
 何があったか、彼は普通ではない本の虫になり、住めるとまで言うとは思わなかった。それは立派な本好きの台詞だ。
 ……それでもまあ、いっか、などと彼女は思った。難しい顔をして本の中へ没頭しているのが、とても素敵だったからだ。きれいに通った鼻梁に光を受けて、彼の顔は逆光の中に溶けかかって見えた。ときに動く喉仏と、その首元の美しい首飾りの色彩と、何よりも深い灰色の瞳が、言葉にならないようなきらめきをしていた。普段食べられないクリーム山盛りのケーキなんかより、今読める詩の本のほうが、あの人にとってはずっと美味しいものなのだ!
 ぺこぺこのお腹と一杯の胸を押さえて、レリッシュは全然食べるつもりのなかったものを探した。できるだけ、コーヒーがおいしそうでも何でもないようなところを。食べてもそんなに満足はできなさそうだし、実際、それほどおいしいとも感じられなかった。
 食べたお腹を休ませようと、のんびりお茶を飲んで、たっぷり一時間は費やしただろうか。彼女はゆっくり図書館に戻った。道中漏らした溜め息は、もちろん複雑なものになった。
 一層書架の窓際、差し込む光をレースのカーテンがちょうどよく和らげる場所に、読書用のテーブルは設けられていて、その一番窓に近いところに、ギノロットはそのままいた。やっぱり、いなくなってなどいなかった。
 彼の前には大小の本が山と積み上げられている。周りに誰もいないのをよいことに、靴を脱いで椅子にかかとを上げている。ギルドでも頻繁にやる、膝を抱える姿勢だった。
「ねえ――どの本か、戻してきますか」
 そっと話しかけると、彼は「あ」と顔を上げた。
「んじゃ……こっち。ありがと」
 胸に抱えるほど差し出されたが、彼の前にはまだまだたくさんの本が残っている。きっともう、ここにいられるだけ居続けるに違いなかった。
 本を書架へ返して、カウンターで紙を一枚もらい、ほとんど彫像のようになっているギノロットに、ごめんなさいと言いながらその紙と鉛筆を差し出した。
「貸してもらうための手続きだけ、しませんか。わたし帰ろうと思うので」
「……帰んの?」
 目だけがちらりとこちらを向いた。集中を切りたくない人のよくやる態度だ。
「だって。いても仕方なくなってきたので」
 言うとギノロットは予想外みたいな表情になって顔を上げたので、レリッシュはすぐに後悔した。急用を思い出したくらいに言えばよかった。ギノロットはやっと現状を把握したらしく、手がぱたと本を閉じて、すまなそうにした。
「ごめん」
「いいですよ。続きを読んで。面白いんですよね?」
 すると彼はうんうん頷いた。大人の身体で新しいおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせるのが何とも微笑ましい。首飾りも嬉しそうにぴかぴか光った。レリッシュにとってみたら、それだけでもう充分だ。少し無理でもこの人に図書館を教えられてよかった!
 申請用紙に名前や連絡先といったものを書いてもらった。まだまだ書き慣れていない、またも子供みたいな字をしていて、不釣り合いでかわいらしかった。連絡先の欄で目が合ったので、さすがにセフリムの宿ではまずいだろうから、レリッシュのアパートメントにしておいた。だが、当たり前のようにファミリーネームが空のままだ。
「姓が」
「ないとダメ?」
「あったほうが」
 彼が元々姓を持たないのは知っていたが、きっと図書館には必要だ。何でも適当に考えてもらうことにした。目の前の本の作者とか、表題とか、あたりの目につくものとか、ただの音感とか、故郷の名前とか、いっそ『銀の稲穂団』でも。
 するとギノロットは考え込んで、武骨な指で鉛筆をもてあそんでいたが、やがてふと思いついたようで何かを書き記す。そこには『Wird』と四文字が表された。
「……ヴィルト? 未来とか予想とかの意味の?」
「ウィルドだよ。空白って意味のルーンの名前」
 くだらないことを打ち明けるみたいな笑みを浮かべるのだが、聞いた途端に一瞬で意味を理解したレリッシュはすっかり感心し、とても素敵な姓だと言ったら、ギノロットは目をきょとんとさせる。
「え……なんで」
 むしろつまらないと思っているようなギノロットのことが分からない。どうしてそんなオヤジギャグを説明するブレロみたいな顔をするんだろう。
「わたしは小粋で好き。だって姓がないから空欄、を書いて表してるなんて、面白い。不思議なファミリーネーム」
 するとギノロットは信じられないような顔をして『空欄』に目を落とし、少し見つめた後に、もはやほとんど聞き取れないような声で、一言つぶやいた。
「……解釈自由……」
 ここが図書館でなかったら絶対に聞こえなかった独り言だった。書いた『Wird』に指で触れ、彼は深く息を吐いては吸った。
 レリッシュには何が起きたかわからなかったが、ギノロットは神妙な顔をして突然に立ち上がり、
「ありがとう」
 単純な言葉とともに、短く頭を撫でられた。まるでモモにするみたいに優しく。憂いのある美しい灰色の瞳に正面から見つめられてびっくりして、温かい大きな手でそんな急に触られるとは思わなくて、沸騰するように頬が紅潮していく。体が風船みたいに飛んでいきそうになって、息を呑んだ。うそだ、わたし、誰の目を見つめているの?
 ギノロットは紙を手にしてさっさとカウンターに向かっていき、レリッシュは慌てて背中を追いかける。今日一日で彼に起きている目まぐるしい変化に、レリッシュの心は追いつかない。どんどん恋に落ちていく。