魂の淵

 周囲を見渡し、普段と比べて変わりのないことを、ワイヨールは静かに確認した。裸足に感じるがれ場のごつごつとした感触も。しかし、むき出しの腕が強風にさらされ、彼は衣服が夏のものだと理解する。
 月はあんなに青いのにな――漆黒の天幕のような夜空に、背筋が震え上がるような満月があった。あらゆる星を排除する、苛烈な光を持つ月。
 今日のこの場所はどこか威圧的だ。寒さに大きく震えた。――そんな日もあろうか。
 寒月の黒い夜空に茫漠と浮かび上がる黒い岩の風景。他のすべてを遮断する、川の流れの乱暴な音。森の陰が、足元の悪い川原に濃い闇を落としている。自分の体から伸びる陰も岩場の陰影も、谷の深さを強調し、彩っている。
 崖のように切り立つ川べりへ降りてみようと覗きかかると、相変わらない底知れぬ暗さに足がすくんだ。今日もまた川には降りられない。
 だがいつものことに、ワイヨールは安堵した。どうどうと流れる川の音を聞いて、その流れの急なことを確認する。今日もそんなふうであるのならば。
 この谷はいつも昏い。この昏さが魂の本質なのだと思うと、知らぬものを見つけた気がして胸がぞくぞくする。手を伸ばしてみると、それは風ではなく魂の裳裾に触れている気がする。
 ワイヨールはいつもここを魂の淵だと思っている。根源だとも思っている。物心ついたときはもうここにあり、今やワイヨール自身と分かちがたく存在する場所だ。どうしてここに立たされるのかは、わからない。あの川の水を一口と望んでいるのだが、そのときは恐らく遥かに遠い。
 うら寂しく、孤独ながら、たまらなく落ち着く魂の淵で、ワイヨールは冷たい空気を深く吸い込み、吐き出した。ここの空気はいつも満たされる。外界で感じるどんな空気よりも体に馴染み、沁み込んで、たちまち自分の血肉になっていく。自分が限りなく清く澄み渡り、無風の水面になったような気分になる。
 ……今はもう少しここにいられそうだ。思ったよりも深くに沈み込んでいる。ほんの少しの猶予がある。
 足元の石を拾い上げると、裏には不器用なルーンが刻まれている。思いのほか幼い、いや若い筆致である。昔の自分自身の字だ。筆致があるとは珍しい。
 刻まれたルーンは『必要/ナウシズ』だった。焦りさえあるその荒い刻印に、必死の心情を見てとった。
 はて、何だろう。すぐには判じかねたワイヨールは助けを求めてもうひとつ拾った。裏返してみると、それは一見してただの石だった――空白のルーン、『宿命/ウィルド』である。
 一番どうでもいいルーンだ、運命なんて何でも運命じゃないか、と呆れて放り投げた途端、周囲の風景はまぶたに溶けてほどけていって、ワイヨールは主観を残して世界を失った。

 集中が切れて世界が明るくなった。タルシスはまだ昼間。太陽は中天にさえ届いていない。
 冷たくはない空気を大きく吸って、体の力を取り戻す。四肢の感覚が確実に反射し――左肩は動かせない――ワイヨールは現実に帰ってきた。テーブルの向かいで本を広げたギノロットが、きょとんとした顔をしている。その隣でレリッシュがハサミを握って矢羽を作っているところだった。彼女もまた不思議なものに出くわした顔だ。
 さっき始まったばかりだと思っていたレリッシュの矢羽作りは、両手が一杯になりそうなほどに積み上がっていた。そんなに時間が過ぎていたのか、とワイヨールの現実は急速に針が回転した。
「どーした?」
 ギノロットが問うた。
「いや、いつもの瞑想です」
「おー。おかえり」
「はは、ただいま戻りました」
 大多数の人は『淵』を自分の中に持たないらしい。かつて同業者にこの場所の話をしたら、そんな妄想はないときっぱり言われた。妄想と呼ばれて少なからず傷つき、妄想なのかと考えてみたけれど、その『淵』はいつも躰どこかの見えないところにしっかりと収まっているような気がする。妄想とはかけ離れた確かな感覚がある。
 あの『淵』の正体について、師に尋ねても心当たりがないといい、いろいろの文献を当たってみても見つからず、仕方がないから一種の瞑想だと説明するようにしている。それくらい彼は『淵』をよく訪ねた。
 集中力が必要な点では、瞑想に似ているのかもしれない。何かの拍子に消え去ってゆく世界だ。すべてが印象で形作られ、感覚によって成立する。同じ場所だと確信はするが、一度として同じであったことはなく、落ちる細い滝のように曖昧で、遠い坂の陽炎のようにあやふやな現実だ。
 目を閉じて再び若書きの『必要/ナウシズ』を思い出そうとしても、それがどんなふうだったのか、もはや思い出せない。現実の風が吹けば簡単に流されていってしまう強度しかない。
 何を欲しいと言っているのやら。自分に尋ねるしかなさそうだとワイヨールは考えた。答えはそのうちきっと出てくる。
「あの、」
 レリッシュが声を上げた。ワイヨールは彼女に目を合わせる――注意していないとまた『淵』まで落っこちてしまいそうだ。コーヒーでも飲んで目を覚まそうと、『おまじない』がすっかり切れて冷めきったコーヒーに口をつけた。
「瞑想って、難しいものだと思ってました。でもワイヨールはいつもみんないる部屋とか、探索で立ったままとか、……もしかして、戦闘中も瞑想していませんか」
 後半を聞いてコーヒーを噴きかかった。
「きみ結構観察してるのね!?」
 そんなにバレているなんて思わなかった。レリッシュの注意力を甘く見ていたらしい。いかにも、力を意識したいときはいつも『淵』を思い出そうとして、ほんの少しでも目を閉じるのだ。神経が研ぎ澄まされる気がして――思い出すだけだけれど、自ら目を閉じるという行為が引き金なのだろう。
「夢から覚めたって顔をするから。父がそうでした」
「ああ、夢――なるほどねえ」
 夢というのは的を射ている。確かに夢を見ている雰囲気に近い。あの谷は、白昼夢なのだろうか。がれ場の感触を足裏にふと思い出す。
「目を閉じたら、もう瞑想の世界なんですか?」
「うーん……ゆっくり沈むとか感じに近いかな。どうしても辿り着けない日はよくあるよ。そういう日なんだと思って諦めちゃうけど」
「……父は一日中そこにいることがあったんです」
 レリッシュは少しうつむいた。
「どんなところなんだろうと思って聞こうとしたら、とても怒られて。ワイヨールの世界は聞いてみても平気?」
「あは。私のは怒るほどの場所ではないよ」
 夜闇の中の黒い谷だとワイヨールは言った。木に囲まれて川が流れ、怒涛の音がする上流の川だと。
「子供のころ、石にルーンを書いて遊んだって話、覚えてる? そういう記憶から来てるんだね、きっと」
「夜に遊んだの?」
「いやいや、遊ぶのは昼間よ? 夜に川遊びなんて叱られちゃうよ。それがなんで大人になると夜中なんだろうね。そんなに夜遊びに憧れてたのかね?」
 笑ってみせるが、なぜ『淵』が常に暗闇の姿をしているのか、ワイヨールは一つの確信を持っていた。だがそれは、軽々には口にできないことだった。もし話したら自分の力が著しく損なわれるだろうことが、はっきりとわかる。それはお断りしたいので黙っておくとして。
「でもこう言うのも何だけど、十人いたら十人とも気味悪がって帰っちゃうところだと思うなあ」
 あの『淵』は他者には赴けぬ禁足地だ。他人が現れることは永遠にないだろう。たとえ他人の姿をしていても、その口から出る言葉はすべてワイヨールの陰のはずだ。ワイヨールはそう確信しているし、真の他者が現れたとして、彼らは『淵』を拒絶するだろう。人間はまだ誰も魂の繋げ方を知らない。
「ならさ。帰らない十一人目って誰だと思う?」
「十一人目?」
「そう。帰りたがらない十一人目」
 ギノロットの唐突な問いに、ワイヨールは少し戸惑った。あの『淵』を居心地よく思う者などあるものだろうか。想像したことのない話に、考えこんでしまうワイヨールである。尋ねるギノロットのまなざしはあくまでも澄んでいた。どこか突き動かされたようでもあり、面白半分ではないようだが、しかし、ワイヨールはその期待に応えることはできなかった。
「ごめん、わからない。あそこに誰かを招きたいとは思えないもの。きっと私だけの場所なんだよ」
「……わたしは十一人目に見えたのかな……」
 レリッシュの声がかすかに沈むので、ワイヨールは慌てて否定した。
「そんな、私とお父さんの世界が同じってわけではないんだよ」
「あ、そうか……」
「お父さんどんな人だったの? お坊さんとかそういう人?」
 瞑想というと僧侶を連想する者が多かった。ワイヨールもその一人であったが、レリッシュは軽く笑って首を振る。
「先生です。ずっとずっと昔の戦争で、祖先が功を立てた家で。小さいけど剣の学校を開いてました。だからいつも剣と一緒の人」
「へー。それって師匠ってやつ? かっこいい」
 剣と聞いてギノロットが興味深そうに身を乗り出すが、レリッシュは、
「……多分、強い人だったんだろうけど、わたしには怖かったです」
 と、表情を曇らせた。
「厳しくされて、弓と体術を教えてくれたのもお父さんだけど。娘なのによくわかりません。どんな人なのか」
「あらま。そういう人ほど自分を見せないところはあるね。男の人にはいっぱいいそうだ」
「……あれだろ、小心者なんだろ」
 ギノロットがつっけんどんに口を挟む。
「こら、人の父親捕まえて何を言うのよ」
「傷つくのヤなんだよ。怖いから。俺はそーだもん。別に厳しかねーけど」
「……ギノさんは自分を、怖がりで小心者って思うことがあるんですね」
 唇を尖らせて、不満そうに言うギノロットだが、レリッシュは意外そうに、どこかしらほのぼのと口を開いた。ギノロットはますます不満そうに膝を抱えるのを見て、レリッシュの目元が緩む。
「そんなんしょっちゅーだよ。やんなる」
「でも、教えてくれるんですね」
「……そーな」
「ギノさんのそういうところ、わたしは好きです」
「褒め言葉だと思っとくわ」
 ワイヨールはしみじみと感じた、それは実際、レリッシュの精一杯の褒め言葉だ。まだ恥ずかしいような、持て余しているような、しかし本物の尊敬を込めたレリッシュの顔を見れば、皆まで言わず明らかだ――不器用なりに自分を見せようとするギノロットを、銀の稲穂団はみな好ましく感じるだろうが、それを口に出して言ったのは、彼女が初めてかもしれない。
 でも最初からそういう少女だったわけではなかった。出会ったころ、彼女はもっと頑なだった。非寛容な子だった。人を好きだと褒めるような少女ではなく、傷つきやすいくせに自分が大事で、常に周りに注目するくせに他人になんか無関心だった。いけ好かない子だった。
 だからワイヨールは感心した。自分の人生に向き合おうとしているから。
「でも本当はそんな人だったのかもしれない。強くて、怖くて、厳しいけど、怖がり、小心……」
「いんじゃねーの別に。その親、すっげー面倒くせー」
 おや、他人の目線からだとそういう人種を面倒くさく思うのか。しかも本当によくも堂々と口にするので、同族嫌悪めいた何かを、ワイヨールは見て取った――レリッシュが柳眉を歪めて拒絶を示す。
「……わかりません。他の人の親を、よく知らないし」
「まぁ。いつかうまくいくよ、大丈夫。ブレロを見てごらんよ、あんなでもうまく生きてるよ?」
 言うと、レリッシュはやっとくすくす笑った。ブレロは週末まで戻ってこない。家族とそういう約束らしい――彼はたまには銀の稲穂団を忘れて家族ともっと馴染むべきだ。冒険者生活は永遠には続かないが、家族の絆はずっと続けていられるのだから。
「おじいちゃんとは仲直りしたのかな」
「まだ聞けてないけど、できてたらいいですね」
「……俺、飲み物買ってくる」
 ふと、ギノロットが立ち上がった。そのどこか複雑そうな顔は、何かを思い出させたのかもしれない。
「甘いのがいー、キャラメルミルクのコーヒー。いる?」
「わたしもそれ好き。欲しいです」
「じゃあ、ポットを持ってって。ついでに私も飲みたいな」
「うい、三人分な」
 ギノロットはポットをぶら下げて、会議室をのこのこ出ていった。ドアがバタンと閉まり、足音がギルドの廊下を遠ざかっていく。レリッシュはその閉まったドアをじっと見つめて、耳を澄ましてギノロットの足音を聞いていた。
「……レリは、ギノのことが特別好きだねえ」
 何だか思わず、ついついそう言ってしまったら、彼女はいよいよ頬を赤らめる。
「ぜ、絶対内緒です! やめてください!」
「わかってますとも、心得てますよ」
「きっと、びっくりさせると思うし……」
「だろうねえ」
「だからいろいろ、落ち着いてからのほうがいいかなって」
「そーお? 奇襲打ってもいいじゃない。あいつ、きっと一生気づかないよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ、あいつがまだフラフラしてるうちにパッて言っちゃえよ」
「でもギノさんには必要なふらふらの気がして。ワイヨールはふらふらしていた?」
「私? そりゃ青春は誰しもフラッとするさあ。そんな前でもないのに懐かしいな」
「そのころ、好きな人、いましたか」
「いたよもちろん! だからパッて……あっ……、」
 諸々の理由で砕いたり割れたり落っこちたり放り投げたりしたあれやこれやがハイスピードで左から右へ駆け抜けていき、ワイヨールは思わず目を泳がせた。
「……全員、お別れしたねえ……」
「ほらぁ」
「うわわわ……ごめん! ごめん!」
 流れたり知らんふりしたり飛んでいったり紛れたり置いておいたり見逃したものもある。なかなか胸が痛かった。ちょっと現在進行系のはそうならないでほしい感じの! レリッシュは何かを察したようだった。
「他人事だと思って」
「いやいやでも。でもですよ。そういうフラッも青春のうちじゃん? 今はそう思うんですが」
 それこそ『必要/ナウシズ』のように。靴も履かない、月光に浮かび上がった生白い足元から、ひとつ拾い上げたルーンが一瞬、くっきりと見えた気がした。どれほど傷つこうが構いもしなかった。そのときそうしたかったのだ。後悔がなかったわけではないが、どの古傷も無駄だったわけではない。
「ワイヨールはそれでもいいのかもしれないけど、」
「あっそんな、ひどい」
「今よりふらふらするのはきっとあの人が辛いから。そういうのはやめたいんです」
 レリッシュがしゅんとなって肩を落とした。彼女は死にかけたギノロットの、生きていたくなかった彼のうわ言を聞いている。
「……ひどいのは私だった。ごめん」
「いいですよ、特別ですよ。そうだ、はちみつのお酒が飲みたいです。ワイヨールのふらふらの話も聞きたい」
「はいはい……わかりましたよ」
 ワイヨールは苦笑した。自業自得だ。
 若い自分が書いた『必要/ナウシズ』、かつて一体何を必要としていたのか。あのころ欲しいと思ったものの中で、本当に必要だったものを、手に入れることはできただろうか。
 レリッシュと同い年だった自分と、それから数年経った自分、確かに大いに違うところはあるが、精神的に成長したかと聞かれれば、そうだとも言いきれないのだった。ただ単に落ち着いただけと呼ぶほうが、ずっとしっくりくる。自分の中に巻き起こった嵐をやり過ごしただけ。
 幸いにしてか自分は今、あの突き上げるような、餓える『必要/ナウシズ』を持たない。
 何が欲しかっただろうか、と彼は思い出そうとする。親と姉妹と友人と時々恋人がいて、学問と、遊ぶことと、食べることと、あとは何だったろう。好きなことばかりしていた気もするし、血を吐くほど辛い思いをした気もする。そして彼我の溝に激しく傷つき、手を触れたときの満ち足りた感覚に胸を焦がした。今は知識欲が自分を冒険に駆り立て、ギノロットと仲間でありたい社会性……いや、そんな冷たいものではない、半ば愛みたいなものが、彼に教育を課している。
 ああ、それからちょっとの好奇心。興味本位。あともう一匙傾けたらどうなるだろうという期待――。
「そんでレリはさあ。アレのどんなところが好きなのさ?」
 レリッシュがうっと喉をつまらせるので、ワイヨールはくつくつ笑った。なんと初々しい。聞かせなさいよ、きみのナウシズ。
「あいつ、少し天邪鬼みたいなとこあるじゃない? ひどいこと言うなぁと思ったら妙に優しくしたりとか。そういうところ?」
「笑うと、素敵、です」
 訥々という表現がぴったりなくらい、彼女は消え入りそうに、しかし思いの外すぐに、そう言った。ワイヨールはなるほど、と声を上げた。
「ギャップの一種だ! 笑顔のかわいげかあ」
 笑うギノロットと言えば川遊びのころのことだろうか。まだ木偶ノ文庫なんて遥かに遠い前の話だ。あの時のギノロットはまさに、水を得た魚のように溌溂としていた。きっとあれが彼の本来の、遠い南洋で生きていたはずのギノロットの断片だ。
「それと……最近、少し柔らかくなった気がします」
 どことなく幸せそうな顔をして彼女は続ける。好きな人の良いところを考えるのはいつでも幸せだ。
「このところ落ち着いたねえ、彼。木偶ノ文庫行かなくなったからかな」
「お話に付き合ってくれるようになりました。ちょっと嫌がってるけど、気持ちを聞かせてくれる」
「おや。本当に?」
 ワイヨールはわかっていない返事をした。確かに彼に変化はあった。だが気づくにしても早すぎると思ってしまったのだ。
「さっきもそうでしょう? 嫌になるって。少し弱みを見せてくれるの。それが何だか、嬉しい」
 レリッシュははにかむように微笑む。彼女は想い人に対してとても繊細だった。ああそうだ、それこそは恋のナウシズだ。
「認めてもらえたなあって気がしませんか。だから」
「じゃあさっきも実は嬉しかった?」
「うん。そういうところが好きって、思いました」
「……きみの恋、なんだかとても幸せだろうな。全然懐いてくれないノラネコが、やっとご飯食べてくれたみたいな、そういう優しい喜びだね」
 真っ赤になって照れながら、レリッシュはふふっと笑う。
「きっとすごく大きなネコですね。トラやライオンみたい」
 なるほど。そんな大型のネコに見えるのなら、擦り寄られたらさぞかし満足するだろう。ただのネコでさえ嬉しくなるのに。ワイヨールはニンマリしてしまった。
「喉鳴らしてくれるまで、道のり険しいぞ。傷だらけになりそうだ」
「いいんです、笑うと素敵なので。戦うところも格好いいです」
「ああ、そういう魅力ね。ますますネコ科な感じだな」
 いいじゃん! しかし、レリッシュの顔はふっと曇るのだ。
「でもね、無理かもしれないって思うんです。ギノさんの首飾り。ローゲルのものと似てるって。それで、人からもらってつけているって」
 ローゲルの? レリッシュの言葉で、ワイヨールを記憶をたぐる――ああ、確か『うっかり』開けようとして間一髪できなかった、森の廃鉱で見つけた、あれ。あれも首飾りだった。
「ちょっと見られるのは恥ずかしい、ってやつだっけ」
 レリッシュは頷いた。
「もし恋人とか、将来を約束した人とか、そういう人がいるんだったら、無理かなあ、と……ギノさんはそういうの、ちゃんとするかも」
「ああ――」
 ワイヨールは迷った。彼女はローゲルのこともギノロットのことも、非常に少女らしい解釈をしている。そんないいものだったなら、ローゲルは金剛獣ノ岩窟の墓前でそれを眺めていたりしない。
 ギノロットは、将来に失望して形見に執着しているのだ。だから失って折れた。だが、あれがもはや過去の抜け殻であることをレリッシュは知らない――ギノロットがまだ話していないということは、知られたくないのと同義だ。
「そうだなあ。いたならいたで、そういう境遇でわざわざ冒険者になる?」
 こうかっ? これなら全然言ってはいない。ワイヨールは懸命に変化球を投げる。
「ならない、でしょうか?」
 よれたボールが返ってきたので、ワイヨールはよいしょと受け止めた。
「だって冒険者って下手打って死ねるよ? なる気はしないなぁ私なら」
「……って思ってもいいでしょうか?」
 いやいや、素直に思ってておくれよ、ここは。そうじゃないと話が進まないじゃないの。ハイ次いくぞ。
「私がギノならそう思うよ? いや、違うけどさ」
「えー! もう、ちょっとずるい。少し期待しちゃった」
 待て待て、ずるくない。だっておれはギノじゃないもの。
「いやでも普通そうだろ? きみならどうする?」
「どう……ああっ、でも冒険も好きも両方って思っちゃったら……」
「で、どうなろうとも結局好きなんだろ?」
「そしたら……そしたら略奪か、自然消滅を待つか、諦めるか、どれかになりません?」
 ちょっとちょっと、もうちょい前向きになって頂戴よ! 投げた球は概ね正解だったつもりなのに、上下左右を間違った大暴投みたいな展開になってきた――あいつに女の子はいないよ、たぶん。まったく、そもそも言えば、あいつがもっと話すやつだったらよかったんだ。いや待て、突然あれを話されたら重たすぎて気を失う。話さなくても正解だ……そこまで考えてワイヨールはいろいろ諦めた。
「はあ。やっぱり面倒くさいノラネコだなぁ」
「やっぱり、って?」
「別に嫌いなわけではないけど、面倒くさいやつだなと思っていたのさ。もうちょっとブレロや私を見習ったらいいのに。それにさ、きみなら他にいい人いるよ? 私が言うと変だけどかわいいよ?」
「たまに、声はかけられますけど……」
「ほらね? 嘘じゃなくかわいいもん」
 女の子っぽい爽やかな服が似合うタイプだ。クラシカルだと落ち着きすぎに見えるから、少し尖ったデザインがきっといい。手足の長さを強調してあげたらずっとよくなる。いずれにしても着る気分になるかどうかだが。
「でも、声かけてくる人って、遊んでるイメージ」
「そうかぁ? 思い込みだよ」
「えー嘘だ。ブレロが数十段悪くなった人ばっかり」
「なんてストレートな表現を。じゃアレでギノが、破滅的に遊ぶ人ならどーするの?」
「えっ……」
「ほら。遊ばないブレロとかいるよ。絶対見かけじゃわからないよ。どうする?」
 レリッシュは知らないかもしれないが、ブレロは上辺でへらへらしているだけのやつだ。酒宴が好きで、美女も好きで、そこで一緒にはしゃげて、面白おかしい思いができればいいだけだ。よっぽどギノロットのほうが影で何をしているか知れない。ブレロが保護者のようにしているから平気だろうけれど……といったワイヨールの胸の内も知らず、レリッシュは耐え切れずに笑いだした。遊ばないあまりに相当上方修正されたブレロが彼女の中に現れただろうことを推測した。ワイヨールもちょっと可笑しくなった。
「まあ、知らないけどね。二十一の私にも子供が四人とかいるのかもしれないぜ」
「わ。微妙にありそうな話がよく出ますね……」
「だってそれが現実かもしれないからさ。だから年一なら十七歳で一人目、それで四人……あ、重たい、十三歳?」
「……それは……重たい」
 露骨に眉をひそめるレリッシュだが、その気持ちはワイヨールにも無論わかってしまった。そういったイベントを十三歳で起こすにはやや早い。少なくともタルシスでは。
「あんまり考えたくない年齢だったね」
「生々しかったです……何か事件でも起こしたんでしょうか」
「奥さん複数とどっちがマシか、な感じだなぁ。あ、奥さん複数で四人なのか?」
「うわあ……どういう人生のワイヨールなのか怖くて聞けません」
「青春を誤りすぎだよなぁ。四人もいなくてよかったなぁ」
「えっ……いるんですか? 二人くらいは!?」
「あっはは、いやいや嘘に決まってるでしょ! たまんないよそんなの!」
 たちの悪い冗談にあまりにもころりと騙されるので、腹を抱えてけらけら笑うと、レリッシュもなあんだと胸を撫で下ろして笑った。早すぎる青春のワイヨールはどこにもいなかった。
 はてさて。ギノロットが戻るまで無責任放談を続けるつもりだったが無責任すぎた。これはろくでもない男のイメージ談義だった。
「なかなか帰ってこないねえ、ノラネコ」
「混んでるのでしょうか?」
「喉乾いてきちゃったなぁ。どこほっつき歩いているんだろう」
 話す間に冷めたコーヒーも飲み尽くしてしまった。カップを傾けても空っぽの底が見えるだけで、喉の渇きが自覚されるばかりである。それでつと、――乾き。空っぽ。気づくばかりの、その飢え、餓え。迫り来た嵐をやり過ごし――ワイヨールの目は宙をさまよい、やがて答えを見つけて一点に止まった。
「……わかった」
「え?」
「いやさっきね、欲望は定めに拠るものと言われたばかりなんだ。昔の私にね」
 向かいでギノロットの開いていた本を引っ張った。それはワイヨールが貸した、印術に関する初級の教科書で、巻頭にルーンの意味を概覧できる頁があった。『必要/ナウシズ』と『宿命/ウィルド』を指し示す。
「例の川で石を拾うとね、何か書いてあるんだ。それが見たくて行くこともあるんだけど、今日はこのふたつ――ひとつめは、昔の私が書いたこのルーン。で、こっちのふたつめを拾ったときに、馬鹿みたいだと思ってさっさと帰ってきちゃった」
「えっ? 何も書いてなくてもルーンなんですか」
「そう、すっからかんの空っぽ。解釈さえ自由な偏屈なルーンだよ」
 無刻印の『宿命/ウィルド』は強調の意味も持つルーンだ。もし三つめの石を拾ったなら、再び『必要/ナウシズ』が出て、さらに四つめはまた『宿命/ウィルド』が続くだろう。そして時が至るまでその繰り返しだ。欲しい、今寄越せ、すぐにだ! ――硬い枷を引き千切り、ただちに噛みつき牙を立てんばかりの欲望。腹満たされるまで止まることはない。
「昔の自分からルーンをもらうときもあるの?」
「今日初めて見たよ。そういうこともあるみたいだ」
 もしかして『淵』に立っていた自分さえ数年前の肉体だったのかもしれない。若く未熟な、目ばかりが生意気にぎらついた痩せぎすな少年だろう。左腕でも回せばわかったかな、と内心苦笑した。
「ルーンは不思議ですね。ギノさん、ほんとにこれ、わかるのかな」
「読みたいと思えるのも才能のうちだからね。きっとわかるようになるよ」
 ギノロットの開いていた頁を再び開く。病院で貸して昨日退院したはずの彼は、教科書を四分の一は読み終えていた。元々字が読めなかったとは思えないほどの早さだ。些細な印術なら使えていても不思議ではない。
 もっとも彼の本職はソードマンだ、すべてがわからなくとも問題はない。彼は印術を敵にぶつけたいわけではない。印術で剣を使いたいのだ。そういうソードマンは数多い。彼も遠からずなるだろう。
「ギノさんにも瞑想の世界ができるのかな」
「もしかしたら探し出して、見つけるのかもしれない。――そしたらあいつが、きみを十一人目に選んでくれるといいねえ」
 レリッシュはその意味をわかりかねてぽかんとしていたが、やがて、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。ギノロットはなかなか、帰ってこない。
 あの『必要/ナウシズ』の石。あの石を誰かに手渡そうと思う日は来るだろうか。下手くそでフラフラしたあの石を誰か、自分で選んだ『十一人目』に差し出す日が来るのかもしれない。まだ自分には縁遠いことになりそうだ。