ブレロ・アクロバティク 2

「まったく馬鹿なんじゃないの」
 帰路につきながらワイヨールが、もはや何度目かわからない台詞をまたしても繰り返した。ブレロには返す言葉がない。
 ワイヨールの左肩は、ブレロによって再び戒められた。三角帯は何をどうしたのかは知らないがすっかり解かれていた。動かぬように固定するための道具を、一瞬でどうにかできるわけがなかったし、だが問いただしてみても一向に口を割らない。
 ワイヨールがおとなしくしていたのは、肩を再固定されている最中だけだった。ブレロが左手の傷の処置をしようと、薬店で道具を買い込んで自ら手当てしている間、ずっと文句の言いっ放しで、今はぷりぷり怒りながらチョコレートを口の中で溶かしている。溶けるたびにせびるので、ブレロの分はとっくになくなった。
「いくら思い出の品とはいえ、そんな怪我まで拵えるなんてどうかしてるよ」
 その台詞も数度目である。あんなのは裏道の手だと彼は何度も言った。術師の風上にも置けないと目を吊り上げている。しかしこれは、貰ったときから大事に磨き続けたかわいい金の子豚である。子豚の代わりは他にはいない。ポケットの中でこっそり握り締めてみると、ブレロの手にぴったりと吸いつく。職人がブレロの手をいろいろに測って作った特注品の子豚のハンドルだ。ブレロ以外の人間が使ってもしっくり来ないだろう。慣れた感覚にホッとした。
「それ……しばらく清いところに置いておけよな。きみの『聖なる力』がなくなっても知らないぞ」
 低めた声のワイヨールは横目で見やった。とても正視に耐えないらしい。
「そんな、知らないぞって。困るのはお前だろ」
 何しろ聖なる守護の力は城塞騎士に与えられた特別のものだ。それを頼りに銀の稲穂団は迷宮に挑んでいるのだから、ブレロ一人の問題ではない。
「大体、清いところと言ってもどこなんだかわからん。神殿?」
「塩の中にでも漬けておけばいいんじゃない」
「うちの子をハムにするつもりか」
「そんならどこでも、日当たりのいい場所とか、清潔なところに置いておけよ。せっかく帰ってきたブタちゃんなんだろ」
 今に夜中に鳴き出す呪いのブタになるよ、などとひどい話まで飛び出した。そんなのあんまりだ。
「日当たりなあ」
「家に思い出の場所とかないの」
「中庭に、藤の花が咲いたんで面白がって飛びついてたら、棚に縛りつけられて飯抜きになったな」
「バカ。もっといいところないのか」
「じゃあ薔薇園だ」
「ならそこに置いて、朝晩ちゃんと面倒見てよ」
「朝晩となると手間だな」
「つべこべ言うなっ。たとえ休息扱いになっても新月から満月分程度はやれ!」
 ワイヨールにしては語気荒くきっぱりと言い切る。よっぽどであるらしいが、いまいちピンとこないブレロはつい眉をそびやかした。
「そこまで大袈裟なことかよ」
 ブレロとしては、金貨十枚を八枚にしてやってすっかり清々しているのである。二割引きというともっと心が躍る。何しろポケットにはまだ五枚が残されているから! そもそも思い出を買い戻しするのに八枚しかないだなんて、そんなデタラメな支度があるか――と、こっそり得意になっていたら、ワイヨールは再び怒りを露わにした。
「呆れた! いいか、仮にも本物の騎士なんなら、聖なるものと邪なるものを弁別しろよ。どうせあの魔法陣に何が書いてあったか知らないんだろ」
 ……言われてみれば、その通り。常ならぬワイヨールの剣幕にブレロはざっと血の気が引いた。ただ元に戻るということで飛びついていた。ダメならダメとそう言ってよ。いや言ったか。無視したの俺だった。
「そういえば……何て?」
「私だってあんなの、詳しかないけど。あれは生贄の陣なの。しかも黄金と人間の血を使ってブタを作るなんて、極めつけに悪趣味な――いいか、きみを生贄に作り直したのがそのブタちゃんなんだ。立って歩けるだけで儲けものだね」
 生贄という言葉に底知れぬ昏さを感じ取り、あらゆるものを呪いにかける、あのねばつく眼が浮かび上がった。今さらのように鳥肌が立ち、傷がなおのこと差し込む気がした。
「ど……」
「どうしたらいいって? だから言ってるだろ、塩漬けにして日向に置いておけ」
「ハムはいやだ……!」
「塩に浸かって毒気を抜け、愚か者め」
 ワイヨールがブレロの足を蹴っ飛ばし、傷に響いて双方の悲鳴が上がる。間抜けな二人組だということはわかった。

 憤懣やる方なき怒り肩のワイヨールと、少しだけしょんぼりした背中のブレロは、昼間のタルシスの街をさまよった。
 あちこちの食堂から昼食のお誘いをする香りが漂ってくる。不機嫌そうなワイヨールの横顔を見れば、食事くらいは奢ってやるべきだった。そこで何がいいかブレロが恐る恐る聞いてみると、「牛肉がしこたま食べたい」などと言い出す。
「わかったよ、カネならあるぜ」
 ブレロはポケットを鳴らした。当然金貨が使えるとは思えないが、財布にはきちんと普段通りの紙幣と硬貨がしまってある。
 ふらりと入った店に上等な牛肉などあるわけでないが、ワイヨールの目利きだか鼻利きだかを頼りにとある一軒が選ばれ、男二人は案内されてテーブルに着いた。レモンライムとミントの沈んだガラスポットが運ばれてきて、今の淀んだ気分を吹き飛ばすのにちょうどいいサービスだった。
 椅子にふんぞり返ったワイヨールは間髪入れずウェイターにダイスドステーキを三人前注文した。メニューを渡そうとしたウェイターは先制されて一瞬固まり、ブレロの口元も引き攣った。
 ブレロは同じものをもう一人分、と言った。かわいそうなウェイターは二度固まった。のんびり何を食べるか選ぶ気になるわけがない。こうなったらもうおまかせだ。ご不満印術師は安酒でも煽るようにグラスの水を飲み干すので、ブレロはすぐにお代わりを注ぎ足した。まるで先輩に仕えている気分である。
「私が怒ってるのはさあ。きみもギノもまるきり同じ手段を取ったことで、そんでもって私はどっちも止められなかったってことで、それで今日のは格段に出来がいいってことさ。……それが一番腹立つよ」
「ギノ?」
 あの呪術師に妬みと怒りをないまぜにしているのはわかったが、なぜギノロットの名が出てくるのか、ブレロは訝しくした。今もっとも取扱注意な名前ではないか。
「あいつが何をしたんだ」
「あいつも修復しようとして、私が手を貸した。失敗したけど」
「おいおい、何それ詳しく言え。何をしたんだ」
 重大事項だ。いつの間に何をやらかしたのだ。ワイヨールはむっつりと言えないでいたが、ブレロは彼を静かに待った。――果たして彼は息を吸って、語り出す。
「木偶ノ文庫でやりあったときに、消し炭になったのを、あいつの血で。……理屈はわかる、でも直接人間に手をつけるなんて、あれは狂気だよ。並大抵じゃない。普通、人間を素材になんか……」
 言ってワイヨールは頭を抱えた。半ば独り言のような話を吟味して、格段の出来とはそういう意味かと、生贄ブレロは素直に喜べなくなった。
「血には主の言葉が眠ってる。けど今の言葉にしかならないんだ。過去はないの。ならどこから持ち出す? ――ある場所から引っ張り出すしかないだろ?」
 ワイヨールは自身のこめかみを打つ。つまり、あの呪術師はブレロの記憶の司に尋ね、応えるがまま子豚を形にしてのけたというのだ。ブレロはポケットの中を探った。そこには彼のよく知るぴったりの形があった。
「腕は確かなんだろうな。きみから引き千切った記憶はまんまと子豚の形になって、なのにきみは平然としている。……ブレロ、きみは本当に運がいいんだ。本当に」
 一体誰に言い聞かせているのかわからない、半ば独り言のような声で、彼は言う。ブレロの胸には苦いものが広がる。
「いや、俺のことはもういい。ギノロットは? 何を失敗した?」
「あいつはただ私に付き合わされただけだよ。私は首飾りの記憶を取り戻さない。あいつが傷つくとわかってた。それで私のやらなかった分だけ自力で取り戻そうとしてるんだ。取り戻したがるのは知ってた。でもやらなかったんだ――」
 ブレロには感づくものがあった。
 ねじれている。
 恐らく何とか固めようとしたのだろう彼の言葉は、別の何かが入り混じってむしろ混沌としていた。羨望と嫉妬と憧憬が垣間見えた気がした。水際にある誤った力に向かって昏い表情をし始めるワイヨールを、ブレロはひとつの確信を抱いて静かに問う。
「なぜギノの首飾りを取り返してやらなかった?」
「……きみなら、人間を贄にするのか?」
 それが善い答えだと思った。身に着いたものなのか付け焼き刃なのかはさておきとして。
「お前はやれることをしたんだろう? 呑み込めよ。頼むから人の道から外れないままでいてくれ。その言葉が本心じゃないと、俺は怒るぞ」
 ワイヨールの目が動いた。何か言おうとしていたものを、言いかけてやめて、沈黙して、再び口を開いたら、彼は一切呑み込めていなかった。たまらない様子でテーブルに肘をつき、目を覆った。
「――自分がこういう未熟を抱えてるだなんて思ってなかったんだ!」
「馬鹿者。泣くな、男の子だろ」
 つまらんと言って切って捨てたら、彼は少し喉を上下させた。鼻から長く息を吸い込み、口で静かに吐き出した。オーケー、お前は男の子だ。
「泣く暇があるなら研鑽せいと教官に死ぬほど怒鳴られたぜ。飯がまずくなるからやめろやめろ。面白くもない」
「……だからちょっと黙ってて」
 うつむいたままのワイヨールの手にさえぎられ、ブレロは満足した。わかればよいのである。
 ダイスドステーキはなかなかに旨く、次は他の連中も誘って来ようという話になり、その日はそれで解散した。若干の湿り気は、ワイヨールが自分できちんと片づけるだろう。できないのなら手を貸す。そう決めている。

 ワイヨールに十五日の謹慎を言い渡されて一夜が明けた。今日もタルシスは晴れている。しかしブレロと金の子豚は『淀んでいた』。何しろ一度呪いをその身に受けたのだ、清らかなはずがない。
 とは言うものの子豚よ、俺たちには悩みなど似合わないはずだ。今日の天気のように晴れ晴れとしていなくてはいかん。
「生きていれば多かれ少なかれ汚れていくものだよなあ。汚れたらどうする? ……そうだよ、風呂だろ」
 元には戻らないが気分がさっぱりするはずだ! そういうことで浴室を使わせてくれと頼んだら、使用人たちは慌てだした。かわいそうだったので浴室の掃除を申し出たら、今度はもっと大慌てしている。逆効果だった。
 少しの交渉が必要だったが、申し出は受け入れられた。ブレロが変わった主なのはだんだん彼らにも認知が進んだらしく、今さら俺のことで親父に叱られることもないよと言ってみたら、不思議なほど落ち着いた……目的は達成したのに、何だか微妙な気持ちになった。
 それはそれとして、浴室のタイルをこするのは久々だった。寄宿舎の浴室――と呼ぶにはご大層すぎる古い寒い冷たいシャワー室――はすぐにヌメヌメと汚れて頭にきたので、同期とともに化学室のエタノールを大量に拝借してぶちまけたことがある。結果どうだったかを覚えていないが、鼻を突く臭いだけはよく覚えている。きっと何か騒ぎが起きて、叱られただろう、俺じゃない誰かが。だって俺は怒られてないから。
 洗剤の良い匂いを楽しみながら(あのシャワー室もこんないい洗剤を使えたらよかった)、ブレロはタイルの目地をこすり、鏡はきれいに磨いて曇り止めを塗りつけ、窓もしっかり二度拭いて、浴槽を隅々まで洗い、バケツに汲んだ綺麗な水であたりすべてを流してやると、元々清潔だった浴室はなお一層光り輝いた。
「やっぱり最高だな風呂場って!」
 バックポケットにねじ込んだ子豚に向かって喋りかけると、声がわぅんと壁に反響した。もっとも子豚は見ているだけだったろうが、だがそんな利口な子豚がブレロは大好きである。
 しかし、どうも楽しくて調子に乗りすぎたらしい。かなりきつく締めつけていたのに、左手の傷が開いて血が流れ出していた。自分が一番利口でなかった。
 慌てて使用人に救急箱を借りに行ったら、対面した彼女は年かさの女性で、ブレロともすでに見知った仲である。彼女は傷を見て飛び上がった。おそるおそる小声で尋ねてみたら「入浴なんて絶対にだめです」と厳しく言い渡され、しまいには傷が深いから医師を呼びますと宣言された。ええっと声を上げたら、さすがの彼女もむっとなった。
 左手の怪我は縫合処置となってしまった。昔から世話になっているこの医師はブレロの傷を見て微笑むと、相変わらず馬鹿だねえと約束みたいに軽く罵り、ごしごし消毒してぶちぶち麻酔を打ち、ざくざく傷を縫合した。麻酔をしているのに痛かった。あの藪医者め。あんたの顔を見てホッとしたことなんて一度もないよ! とうとう包帯でぐるぐる巻きになって、とても風呂になんか入れない有り様になった。
 ブレロはちょっと、おとなしくなった。
 まったく、せっかく子豚が元に戻ったというのに気分が晴れない。子豚を見つめれば見つめるほど、ワイヨールの言葉がぐるぐる回る。ベッドに転がりながらブレロは子豚に話しかけた。
「生きるに汚れがつきものとはいえ……そんなに汚されてしまったのかお前は」
 ひょうきんな笑顔からはちっとも想像がつかないが、確かにこの子豚のいくらかはブレロの血と、頭から引っ掻き出された何かでできている。術師が陣に触れたときの目眩は明らかにそうだった。
 一度失ったものは、二度とは手に入らない。どんなにずっと眺めていても、まるきり同じにしか見えないのに、もはや子豚は似て非なるものなのだろう。
 あの術師の底知れぬ昏い瞳を思い出す。あの凄惨な笑みは、一体どの道を選ぶとできるものなのだろう。この鮮やかに見える子豚の金も、どことなく気鬱をはらんだ色に見えないだろうか――。
 かくなる上はやはり塩漬けか。
 ブレロの溜め息は深かった。ごめんな子豚よ。朝晩に瓶から出して、ちゃんと拭いてやるから。決して錆びたりするんじゃないぞ。ブレロは決心して起き上がると、再び子豚をバックポケットにねじ込んだ。
 厨房へ顔を出したら、昼食の下ごしらえの真っ最中だった。どことなく殺気立つ厨房にブレロが現れたものだから、一瞬蜂の巣をつついたみたいな雰囲気になる。まるで「素人が何しに来やがった」とでも言いたそうな料理人たちの視線に、ブレロはたじろいだのだが、次兄としての名を名乗り、今朝の食事も素晴らしく美味しかった、ありがとうと頭を下げてみせると、彼らの殺気は和らいだ。ブレロは礼を伝えることの大切さを再確認した。
 何も子供じゃあるまいし、腹を空かして厨房に赴いたわけではない。子豚のための塩とビンを分けてもらえないかと尋ねに来たのだが、料理人たちが右へ左へ忙しそうにしているところへ勝手に踏み入れる気はさすがに起こらない。そんなことをしたら蹴り出されるに決まっている圧迫感がある。こちらが使用している側であるにも関わらずだ。
 入り口から一歩も動けないままに、どうだろうかと問いかけたら、まだ若い料理人が呼びつけられて、ブレロを案内してくれた。奥にいくつか置いてあるのだという。
 料理人たちの忙しそうな背後をすり抜けて、彼らが包丁で肉に切れ込みを入れたり野菜の皮を素早く剥き取っていったりする様を見学する。たまにセフリムの宿で台所を覗きこむが、それとは手つきも速さも一段違った。ジャガイモが次々丸裸になるのに見惚れて壁にぶつかったくらいだ。
 隠しきれない呆れ顔で、若い料理人はビンの幾つかを見せてくれた……恐らく次男はバカだと思われただろう。もはや否定はすまい。
 掌サイズから人間の頭さえ入りそうなものまで、ビンはたくさん並んでいる。ブレロがポケットから子豚を取り出してどれがいいか聞いてみたら、よさそうなものをひとつ選んでくれた。果実酒を漬けていたビンだと言う。これなら子豚は確実に入りそうだ。
「一体何に使うんですか?」
 素直に答えれば確実に頭がどうかしているやつだと思われるに違いなかったので、ブレロは苦笑して答えを濁らせ、ビンを抱えて引き返した。
 たっぷりの岩塩も持たせてもらい、その後は彼女が黙っていてくれたら、次兄が金の子豚でハムを作ろうとしているかもしれない阿呆ボンということにはならないだろう。ブレロは礼を言ってその場を後にした。
 さて、二階の自室に向かって荷物を運んでいると、階段の踊場の窓で風景が綺麗に光っているのに気がついた。
 今日もタルシスは晴れている。風は乾いて爽やかで、秋の柔らかい日差しが気持ちよかった。時々北から吹く風に、遠い冬の気配がする。しばらくすると木々の紅葉が始まるだろう。
 そういえば、薔薇園がある。あそこはいつ行っても日が当たって、ミツバチが一生懸命に働いて、実に気分のいいところだ。
 部屋に行くのはやめにしよう。好きなところに行くのが一番いい。

 しかし我が家で働く使用人たちは災難かもしれない、とブレロは思った。たまにしか見ない次男坊が帰ってきたかと思えば、何かとおかしな頼みを持ちかけてくる、そんな風にしか感じないのではないだろうか。
 老いた庭師は、ブレロによって無残に切り取られていく秋薔薇を、悲しそうな顔でひとつひとつ見つめていた。そんな目で見ないでほしい。俺は、俺のために植えられた薔薇を必要だから摘んでいるに過ぎぬのだ。薔薇の主になんの不満があってそんな態度をとるのか――などと作文はできても、恩知らずなことを言える性格でもない。使用人に大きく出られないのがブレロである。使われるほうが楽な性格だと度々思う。
 薔薇の主と言うとやや意味は異なる。ブレロが生を受けたときに母が植えたという、いわゆる記念樹である。
 二十年以上になる薔薇は、庭師が毎日こつこつ力を注いでくれたおかげでのびのび生長し、株分けを繰り返して、春から秋まで花を咲かせているらしい。らしいというのは、その様子を詳しくは知らないからであるが。
 玉のように咲く薔薇ではない。兄たちのために植えられた薔薇と比べたら、非常に地味な感じがする。兄の薔薇は優雅な深紅で、薔薇のお手本みたいな姿をしているし、妹の薔薇はかすかなピンクの差す、ピオニーにさえ見間違う華麗なものだ。
 それらに対して自分の薔薇はぼんやりとした黄色で、見た感じは林檎の花にそっくりで、とても率直に言うと、薔薇には見えない。
 しかし、大きく立ち上がって藤のように棚が必要になったのは、自分の薔薇だけだ。家族の中で最も背の高いブレロでさえ、見上げる木である。枝垂れた花が風に揺れているのはいつ見ても見事なものだ。そこだけはとても面白い。
 で、今その見事な木の花をバチンバチンとハサミで切ってビンに放り込んでいたのだった。秋の花はそんなに多くは咲かない。切り尽くすはないにしても、遠目から見たらきっとこのあたりだけ、花が薄くなっていると思う。それはもちろん亡き母を知る老庭師も悲しいであろうし、母も草葉の陰で泣いていよう。
「……ごめん」
「いいえ、坊っちゃんが欲しいんでしたら」
 老庭師は努めて笑った。胸が痛い……いや、考えるのはやめよう。
 ビンいっぱいに花が溜まって、ブレロはハサミを庭師に返し、向こうのベンチに歩いていった。
 薔薇園のベンチには神聖な思い出がある。母が訓戒をくれた場所だ。迷ったら必ず思い出す。ここに座ると、このベンチがなかったら今ごろどんなだったろうと、今の自分が奇跡のように思える。
 そのベンチでこれから、母の手植えの薔薇を黙々と毟る。愛しいもののためには多少の犠牲を払う必要があるからだ――母さんごめんね!
 ビンをひっくり返して薔薇を出し、新米の料理人が一生懸命削ったらしい塩を袋からザラザラ流し込む。全部は入れない。それから、薔薇を一枚ずつむしって入れる。女の子の花占いみたいだと思った。占うまでもなく俺には勝利が約束されているけどな。
 花びらが溜まったら、塩と振り混ぜてみる――ほのかな赤みのある粉の中に、黄色の花びらがひらひら挟まれている。塩が赤いだけ、花びらが際立って黄色く見えた。ビンの中で薔薇が舞っている風景にも見える。
 花びらを摘み取るのに時間がかかった。丁寧にやらないと千切れてしまうから。混ぜるときに千切れてしまうこともあったが、わざとではないから許してもらうとして、そうこうしているうちに、子豚が岩塩浴する準備は整った。
 ポケットで利口に待っていた子豚は、生暖かい具合になって出てきた。生ぬるいハンドルというのはちょっとだけ気持ちが悪いな、と思った。
 傷がつかないようにハンカチでくるんでやってから、子豚にしばしの別れを告げた。今日はこれで一日放置だ。あとは子豚が呪いのブタにならないように祈るしかない。
 さて、遠くから母の呼ぶ声が聞こえた。どうやら昼食の時間が近いらしい。ブレロはビンを抱えて返事して、今日の昼は何ですかと問いかけた。