ブレロと銀の稲穂団 4

 セフリムの宿に戻るとブレロの元には一通の手紙が届けられていた。話によると到着したのは、どうやらブレロが黒馬車に乗せられた後らしく、親子は完全に行き違っていた。
 手紙は深い謝罪と、必ず事態の収拾を図るということと、当初の約束を果たすという約束だった。父ならきっとそう言ってくれるだろうと、想像できる文面だった。
 身の振り方を考えて、一夜明けた。
 宿の大部屋の、朝日が差し込む窓際で新聞を眺めていたら、眠っていたギノロットが目を覚ました。「おはようございまあす」と声をかけると、絶え絶えに「水欲しい……」とだけ返ってきた。
「好きなだけあるぞぉう」
 サイドテーブルに大きな水差しで用意してある。何とか起き上がるギノロットは、がぶがぶ水を飲み干した。
「なんと今はまだ午前八時前! 若いと立ち直りが早いね。羨ましいね若人は」
「うるさい……」
 二日酔いの憂鬱そうな目で、ギノロットは睨みつけてきた。
 昨晩夕飯を摂りながら、銀の稲穂団のメディックが一体何をしたのか、彼女の傷にはばかりながら話して聞かせたのだった。マドカの右ストレートは格好の肴だったし、若人ギノロットは飲み方などわかっちゃいないので、適切な飲料を適切に勧めれば占めたものだ。昼間の礼とばかりに酒をくれてやったのだった。気取り屋のギノロットをベロンベロンにするのは、かなり面白い。お前も記憶を失え。
 それはさておき、ブレロは念押しした。
「俺、しばらく留守にするんでよろしくな」
「ん……? あー、そーな。分かった」
 週末までいないっけ、とつぶやきながらギノロットは眉間を押さえる――よくもあれだけ飲んで覚えていられるものだとブレロは呆れた。くそう、失敗か。次はもっとだ、今に見ていろ。と、ギノロットはまた水で喉を潤すと、真面目くさった顔になる。
「……次はウヤムヤにすんなよ。お前の問題だろ、逃げねーでケリつけろ」
 ブレロは頷いた。ぼやぼやしていると、またメディックが嵐になってやってきてしまう。気だるいギノロットに別れを告げて、ブレロはセフリムの宿を出た。このごろ装備が重いとぼやくギノロットのために、次はクイックステップでも習ってみようか。

 ブレロの帰宅が知れると、父が血相を変えて飛んできた。右手にナフキンを握りしめている様子から、朝食中だったらしい。まあ、そうだと思っていた。
「おはようございます。また戻りました」
 何でもないふうに手を上げると、父はそれだけで胸を撫で下ろした。息子がついに家出したなんて勘違いされるといけない。父の願いもあって、せっかくだからご相伴にあずかった。なにしろこの家に来ると、果物がおいしい。父とともに食堂に顔を出すと、あらかた食事は済んでいたようで、一家は盛られたマンゴーを取り分けているところだった。
「連日お騒がせしています」
 ブレロは軽く頭を下げた。
「おかえりなさい、フェル。お座りなさいな。マンゴーはどれくらい?」
「おはよう母さん。山盛り欲しいな」
「まったく、お前のせいでお祖父さん荒れてるぞ」
「俺も驚いたよ! とんだ闖入者だった」
 半分バックファイアの気分だ。兄は笑いながらマンゴーにレモンをかけている。ブレロも笑った。兄が笑っていればまだ安心だ。兄を無表情にさせたらひどい有様だと思っていい。
 ブレロは兄の隣に座った。向かいに父と母。ここがブレロの席だ。母がマンゴーを分けてくれて、兄がレモンの半分を放り投げてきた。マンゴーとレモンは最高の組み合わせだ。
「金額書いてない小切手くれたって? 死ぬほどゼロつけて慈善団体に寄付してやるって言ってたぞ。あちらさん新聞に載るかもな。身に覚えのない募金で」
「おい待ってくれ、本気か」
「たぶんね。いいんじゃない、張り合う相手ができて。俺もそういう厄介な爺さんになりたいな」
 父が口を挟むと、兄はマンゴーを頬張りながらお気楽に答えた。
「アルのそことは本当に意見合わないなあ俺」
「言い出したら聞かない人だ……」
「あなたの家の血ねぇ」
「けどさ。傍から見てたほうとしては、あれだけ小娘にバカにされたら寄付は優しいよ。お祖父さんは気が済む、あっちは名声になる、恵まれない者は救われる。誰も傷つかないぞ。三方よしの妙手だ」
「おいフェル。アルも。そろそろおふざけはよしてくれ」
「わかってる。すみません、冗談です」
「反省してまあす」
 レモンをかけたマンゴーにかじりつきながら、ちっとも反省していない兄の態度にブレロは笑った。
「俺の問題なのに当事者不在はさすがにどうかと思ったから、しばらくは家にいるよ。週末までは」
 言ってみると、存外すっきりした気分だった。これでしばらく家の虜になる。最初からこうしておけばよかったのかもしれない。残した退路でやたらに逃げ回るからマドカが先に口を出したくなるのだ。
「お前は本当に昔っから危なっかしい」
 父はいつもの溜め息をついた。父にとってはそういう息子だろう。だが、家ならそれでもいいか、と思った。
「こういう話は、これきりにするよ。そもそも俺がそういうふうに約束したのだし」
 干渉されない代わりに迷惑もかけない。そう約束をしたつもりなのだから、ここにいることにしよう。俺が籠城すれば、漏れる情報などあるまいよ。

 突然帰ってきても時間は余っている。家族は仕事に出かけて、家は基本的に暇だ。ブレロは日ごろ留守にしているだけに部屋にものも置かないから、掃除をしようにも部屋は綺麗に片づけられている。実家にいると暇を持て余していけない。
 そうであろうと暇つぶしの道具はいろいろと宿から持ち出した。本日のメニューはゴーントレットである。装備の手入れはいくらやっても追いつかない。
 中庭の藤棚の下で、棚柱にもたれながらゴーントレットの親指を分解した。紙の上に外したネジと、ドライバーを置く。防具というのは全く精密にできているものだ。
 藤の木は、まだ開くには早い豆の鞘が風に揺られてふらふら揺れている。タルシスは今日もいい天気だ。
 検分してみると存外に汚れがあって、分解してよかったと思わせる。少しぬぐってみると真っ黒だ。ぼろ布をもう少しもらってきたほうがいいかもしれない。
 足りるかどうか拭きかけの親指をもてあそんでいると、胡座をかいた足元に何かがポトンと落っこちてきた。ボタンである。袖に縫いつけるような飾りボタンだ。ボタンの軌道を遡ると、屋敷の窓辺で面白くなさそうな顔をした祖父が立っている。
 ついに離れから歩けるようになったか、ジイさん。ブレロはちょっと鼻白んだ。どうして怪我人のくせにそんなにフットワークが軽いのだ。もうちょっと放っておいてくれたら、集中できそうだったのに。――祖父は窓辺から向こう側へ発つ。おそらくはこちらに来るのだろう。思わず重たい息が出る。
 祖父は杖をつき、芝生をゆっくりと踏みながらやってきた。何ももったいぶっているのではなく、そうとしか歩けないのだろう。傍目から見て動きが硬い。
「僕はまだ話しませんよ、」
 機先を制してブレロは言った。
「これ以上は父さんに叱られますからね」
 父は今回、肝心なときに限って不在だ。不憫な父のために首を横に振るのだが、しかし、それを無視して祖父は鼻を鳴らした。
「儂が先に叱られたわ」
「えっ?」
「昨日はフラミンゴの娘にしたたか言われて、今朝はサロモンがあまりにもネチネチ言うから、儂は疲れた」
 うんざりした顔をこちらに向ける。
「父さんが、珍しい。何を言われたんですか」
「いろいろとじゃよ」
「今さっき?」
 黙したまま祖父は頷き、大義そうに隣に腰かける。手を貸そうと思ったが、祖父は無用とばかりに、柱をよすがにして足を伸ばした。
 屋敷の片隅には雑木林があって、そこから小鳥の鳴く声が時おり響いてくる。藤棚から近いわけではないが、彼らの美しい歌はよく届く。いつだかに、木をもっと増やせばいいのにと言ったら、落ち葉が増えて仕方ないからだめだと言われたことがあった。片づけるほうの身にもなれと。
 ――ブレロは視線を戻した。親指はまだもう少し綺麗になる。
 のんびり屋の父は大概のことは大目に見てくれる。のんびりすぎて後手に回ることもあるのが、ブレロから見た父だ。ただ、素直な人で、気取るところもなく、人好きのする顔で、不器用を自覚する分は努力家で、だから人望があった。それで商売がうまくいく。父本人が意識しない魅力で周りを変えて整えてしまう。父のそういうところが、どうしても無碍にはできない。
 その代わり怒らせると厄介だ。火の着くような怒り方はしない。ただ、着実に理詰めでやってくる。理に適えば飲んでくれるが、そうでなければ、こちらが折れるまで手を休めない。馬鹿なことを言い続けていると、そのうち必ず頭を下げたくなるようになっている。
 祖父とかち合うと、不思議なことに祖父が折れる。静かな顔をして静かに抗弁を続けるのが――祖父に言わせればネチネチやられるのが――堪えるらしい。言ってみれば父はあれでいて自分の流儀を押し通すことに長けていた。
「それは何だ?」
「手を守る道具です。今持ってるのは、親指」
 直接はめて見せてやる。ベルンド工房で採寸してもらったものだから、ピタリとはまる。そろそろ人差し指も拭きたくなって、ブレロはネジを外しにかかった。
「えらく汚れとるな」
「すぐね。泥とか埃とか汗とか。最近は血の汚れがなくていいかな。あれはすぐ錆になる」
「ふうん。防御役と聞いたが、案外怪我をせんのか」
 ブレロは躊躇した。ここまでだったら学生でも話せる。ここから先は冒険者にしかわからない。だから話さないほうがいいのかもしれない。
 今までだったら話さないところだ。
 だが、祖父の終始不服そうな顔の、蚊帳の外に置かれた気持ちについて考えると、今さら無情にも思える――相手は祖父だ。血の繋がった家族である自分を、心から愛してくれている。だからここへ、うまく動かない体であっても、話をしに来てくれた。
 二つのネジを外し終え、ブレロは息をついた。小さな部品は気を使う。細かい部品用に磁石でもなくてはいけないと思うのだが、どうも毎回忘れてしまう。
「防御役もマスターランクまでなれば、ちょっとした奇跡がいくらでも起きますよ。迷宮では踊りがとても役に立ちます。意外でしょう」
 ブレロはつい喉の奥で笑った。今では戦場で盾と踊っていると言っていい。ダンサーにいろいろな足捌きや体捌きを教わってからは世界が見違えた。ガードマスタリを習得してからはそれに磨きがかかった。世界は恐ろしいほどのろまになった。
 モモに冒険に必要な色々のことを覚えてもらっているのも、ブレロが涼しくディバイドできるからだ。小さな女の子を無傷で守り通すのは実に誇らしい。いつも尊敬の眼差しで見つめてもらえる。
「本当は踊りのほうがいろんな奇跡を起こすらしいけど、僕には無理かな。柄じゃないから」
「せっかくの奇跡をモノにせんのか」
「二兎を追う者は一兎をも得ずというでしょう。僕はダンサーじゃないから、いいんですよ、そういうのは」
「ふうん。案外地味だな……もっと華やかな仕事かと思っておった」
「でも性に合いますよ、実に」
「血と汗にまみれて仲間の怪我を肩代わりするのがか?」
「いえ、俺は甲羅の中なのに相手の脅威になるのが性に合う。性格が悪いと言われますけどね。でもそういったこともすべて思う壺です。だからざまを見ろと笑ってやりますよ。そうするとまた相手がこっちしか見えなくなる。俺も仲間も一切消耗せずにね」
 思い出すだに笑いが止まらない。魔物のくせに焦ったような態度になるのが愉快だ。耐えれば耐えるだけ相手が消耗していくのは、フォートレスの自分が戦況に及ぼす力の大きさを感じられた。まったく愉快極まる!
「なるほど、遊戯盤でもそんな具合だったな――それで世界樹の麓まで辿り着いたならば、悪くもないな? これまでタルシスの誰もが成し得なかったことだ」
「けれどそれ以外が……ソードマンのやつが、魔物の質が違ってきたので、彼の一撃が思ったよりも通じないのが一番厳しい」
「あれか、歩兵の、剣を下げとるのだな」
「そう、迷宮にあっても歩兵は戦の華ですよ。――けれど何であっても効かないものは効かないし、彼の出番ではないようにさえ見えるし。かと言って他に彼の代わりがいない……銀の稲穂団には彼が必要です。あいつは我々の、闘争心みたいなものだから」
 ギノロットは木偶ノ文庫でもどかしそうにしている。装備がかさんで手が遅くなる。いくら斬っても致命打にならない。とかく手応えが薄い。ならばといって火力を出すと消耗して、継戦性が失われる。
 レリッシュが頻繁に有効打を与える。マドカの技を引き継いだモモが敵の動きを続々と封じていく。ワイヨールが的確に弱点を見抜き無情な印術を浴びせかける。仲間が技を磨いている中、今のギノロットはそれらの補完役に過ぎなかった。皆の技術が木偶ノ文庫に適応する中で、ギノロットの剣だけが冴えない。サブクラスにモノノフを選んでから、刀を持つか剣を持つか頻繁に迷っている。選んで得たはずのモノノフの技を持て余している。かといってソードマンの力だけで抜けられる戦場は、遠く背後の彼方にしかない。
 巫女シウアンがさらわれたままなのに迷宮を行きつ戻りつし、探索は遅々として進まなかった。『早く行かなければいけないのに』――そういう気負いが見える気がする。ふと隣を見ると、抑えきれない苛立ちを剣に乗せる少年めいた顔があるのだった。
 ギノロットを搔き乱す要素はたくさんありそうだった。
「でもまあ、あいつまだ思春期だし。何とかなるでしょう。あんまりちょっかいをかけると、ぐれてしまいそうだ」
 俺みたいな大人にはしたくないし、と内心で付け加えた。俺は大人にしてはちょっとこじれてしまっている。ブレロの口元に自嘲が浮かんだ。すると、祖父が意外そうにする。
「まだそんなに子供なのか、お前のところの華は? 三つも迷宮を越えた冒険者たちの牙役が、まだ十代の子供?」
 ブレロはくつくつ笑った。銀の稲穂団が歴戦の勇士の集まりと思われることは多かった。だから、ベルンド工房の看板娘が「銀の稲穂団!」とギノロットを呼ぶたびに、人々はひょこひょこ奥へ入っていくギノロットに気づかない。
「辺境伯が何と言うかは知らないけれど、俺から見れば。他にも射手は十五かそこらの女の子だし、ウロビトの方陣師に至っては十にもならないし。二十歳すぎの印術師は、体力的に頼れないしなあ」
 ふと指先で平均年齢を計算してみて、十七歳にしかなっていないことを知った。銀の稲穂団自体が思春期じゃないか。
「どうしてそういう話を、もっとしてくれなんだかなあ。わしはもっとお前の活躍する話を聞いてみたい」
 一見頼りがいのないメンバーを、ブレロという騎士が率いているのかもしれない。知らない者が見ればそういうギルドだ。祖父から見れば余計にそうだろうが、ブレロは祖父の口振りに少し苛立ちを感じた。
「……絶対にお節介を焼きたがるに決まってる。言ったでしょう、手出しはいらないって。俺は俺のギルドが欲しかった。それが俺の銀の稲穂団です。だがお祖父さんにかかったら、事務所の手配までしてしまうでしょうよ」
「そりゃしたくもなろう、孫の快進撃は愉快だ。気球艇の帆でも張ってやろうわ」
「俺は愉快じゃない! 何が面白いものか」
 思わずゴーントレットの指先を平手で叩き捨てると祖父は身じろぎした。だがブレロの衝動は止まらなかった。
「聞きたいのならもういくらでも教える。だが施しはいらない!」
 祖父の目は明らかな動揺の色をしている。ブレロのあまり見たことのない目だった。後悔した。手で顔を覆ってしまう。己の言葉の鋭さに打ちのめされる。
「いや……違う、そんなふうに言いたいんじゃなくて……」
 祖父は何か言いたげな口をしていたが、頷き、ブレロの話が続くのを察して待ってくれた。遠くの林の小鳥たちの歌が沈黙を埋める。

 子供のころから胸の中に隙間がある気がした。何だか変な感じだと思った。成長したらもっと変な感じになった。声が変わるころには完全に嫌と言える隙間になった。まともに見るのが怖い隙間だ。暗いし冷たい。それに乱暴だ。隠そうとするとなお目立つ。爪を立てると妙に痛い。
 もどかしく思いながら兄に話した。兄は静かに聞いて、理解を示すと、ひとつ提案してくれた。俺たちのやらないことをしてみたらいい、と。
「フェルはずっと寄宿舎から学校に行ってるし、騎士の訓練も続いてるんだろう。それは俺にも父さんにも無理だ。もうお前にしかできないんだよ。爺さんにだって、今さら無理だ」
 兄はブレロがたまに帰省しては話す学校や寄宿舎での出来事を、大層なことみたいにいつも聞いていた。露骨だったのは、遠征や合宿訓練の話のときだ。兄は本を読んだり、屋敷で教師と勉強したりするのが性に合う。怒鳴られながら体を動かすなんて考えられないたちだ。
 兄は庭の木によじ登って骨折なんかしなかった。一人で屋敷を抜け出して迷子になる性分でもなかった。弟が池で釣り堀ごっこを企んでいるとき、兄はコイの背びれを観察していた。弟がウサギの耳を掴んでぶら下げているとき、兄はクローバーを与えながらその立派な歯に感心していた。
 そういう兄であったし、父も似たような少年時代を過ごしていたようだ。父からしたら無軌道なブレロは、規律正しい騎士学校に通うことになった。入学の翌月からは寄宿舎で暮らした――結果として正解ではあったけれど、次男のようなやんちゃ坊主のことなど、真に理解はできないだろう。
 父と兄を見て、自分を省みた。学校では異端ではない自分を知り、騎士になってみようとした。体力には自身があるし、人に尊敬される仕事なんて幸せだ。
 そのころタルシスでは冒険者たちが気球艇を手に入れて、街は大いに賑わっていた。城塞騎士は冒険者の間でも重宝されていると、寄宿舎にいれば自然と耳に入る。こちらの都合もお構いなしに襲いかかってくる魔物は、なるほどどこか暴徒に似ていた。
 危ないと言って烈火のごとく怒ったのが祖父だ。祖父はおっとりなどしていない。口出しなんてよくする。雷おやじならぬ、雷じじいだ。悪さをして尻を叩かれるなんて、寄宿舎に入るまではしょっちゅうやられた。
 祖父はまだまだ現役で、転んで筋をひねるなんてするわけがなかった。むしろ怒られているブレロ――フェルナンのほうが、運悪く膝に怪我を負っていて、まともに歩けていなかった。
 祖父は言った。今みたいなことになるに違いない、そんなことより商科学校に進んだほうが、よっぽど安全で現実的ではないか。しょせん躾代わりに始めた集団生活だ、もう終わりにしろ。
 反抗期真っ盛りのフェルナンが言うことなんて聞くわけがなかった。怪我なんてしょっちゅうなのに今さらだった。前期の間に小指を骨折して治したなんて、どうせ知らないのだろうと探ってみたら、案の定知らなかった。
 自分で選んだ仕事をして、その全部が自分の責任で、噛み砕いて飲み込むべきことのはずだ――全部フェルナンの反抗と怒りの餌になっていく。自分で選ぶこともなければ、責任も取れず、理解もできないままに人生を進める。そういうことはもうたくさんだった。
 まだ自分があやふやだったフェルナンは、能弁になれない部分が多すぎて、つたない言葉を必死で連ねて何とか自分を伝えようとした。父にさえうまく伝えきれないフェルナンの隣に、いつも兄は一緒にいてくれた。
 心配そうな父が大学校への進学同意書にサインしたのを見届けると、フェルナンは夏休みの間中ずっと、ありとあらゆる口実をつけてあちこちへ出かけた。祖父が働いている日中は屋敷にいて、帰ってくる前の夕暮れには出発し、眠たい目をこすりながらブランチを食べに帰ってきた。そんなには歩けないから、多少無茶でも馬に乗って。七日連続単独キャンプをしたときはさすがに難儀した。でも、兄はずいぶん面白がった。
「俺はラクロスで精一杯なのに、お前はサバイバルしてる!」
 絶対に俺にはできない! その感心は兄の口から賛辞となって父に伝わり、父もこの馬鹿げた冒険を楽しんで聞いてくれた。だから、うっかり足を滑らせて川に落ちた場面で父は肝を冷やして口元を押さえ、しかしそのおかげで大物を捕まえたと教えたら喝采ものだった。
 でも兄の感動がなかったら、父がこんな反応だったかわからない。誰から見ても逃避行なのは明らかだ。
 兄は、ほとんど一家とフェルナンとの通訳だった。フェルナンの懊悩を受け止めて、家族にわかるように伝えてくれた。手厳しい祖父さえも兄が巻き込んで、素直に喜んで弟の成功や失敗の勇気を讃えるのを聞くと、そう思わされてしまうようだった……兄には頭が上がらない。兄には父みたいな天性の才能があった。似ているのは、見た目だけだ。

 その兄は今いなかった。父と一緒に仕事に出ている。いつもの顔で家を出ていった。生業の舵取りをうまくやっている。
 悪さ以外なら何をしてもよろしい。俺には絶対にできないよ。一人で苦しんでるのは嫌なのよ。うやむやにすんな。けりをつけろ。
 肺の中の空気を全部吐き出して、また吸い、ブレロは言葉を探した。ひどいことを言いたいわけではない――。
「だから……ただ俺の力を試してみたいだけで、何か分けてほしいとか、力を貸してほしいとかじゃなくて、俺はもう充分守ってもらった。今度は俺に何ができるのか知りたい。家の仕事は、父さんとアルがいればできる。だが俺は自分が何ができるのか知らないまま大人になる。それは嫌なんです」
 反抗期真っ盛りのフェルナンが暗がりから見ている気がした。ホントに言えんの? 言い訳、だっさ。――当たり前だ、話すんだよ、大人だからな。
「銀の稲穂団の中で俺はフォートレスで、なるべくみんなに怪我をさせないのが仕事です。かと言って俺が代わりに怪我をするわけじゃない、それじゃ意味がない、誰かが辛いのは結局同じだから」
 二度と消えないマドカの傷が胸に浮かぶ。ブレロにとってマドカのあの傷は、絶望の傷だった。未熟なフォートレスがどれだけ仲間をどん底へ突き落とすものか、まざまざと思い知らされたからだ。
「俺に何か起きると、みんなが動揺するんですよ。俺はショックの緩和役だから。他に代わりがいないくらい、俺は重要なところに来られた。それは名誉なことだ……そういうのを、やっと見つけた」
 防具を磨く手はすっかり止まっていた。人差し指が、放ったらかされている。
「お祖父さんや父さんやアルが替えがきかないみたいに、俺もなりたかった。ようやくなれそうです――そんな説明で、わかりますか」
 ブレロはもう磨く必要のない人差し指を見ながら、おずおずと尋ねた。
「次に磨くのは、この指か?」
 ゴーントレットの中指を指して祖父はそれだけ問い、だが答えを求めているふうでもないように見えた。
「……帝国から巫女を救ったら、儂にも話を聞かせてくれ。若い歩兵の行く末もな」
 お前の話を聞けないのは、つまらない。祖父はブレロの胸を小突いて、軽く笑った。
 今度はたぶん、間違っていない――ブレロはもう逃げなくてよさそうだった。もうどれくらい久しぶりかわからないほど、ブレロの顔したフェルナンは祖父の前で笑った。

 この日のタルシスはかすかに湿っぽい感じがした。風も弱く、雲が空を覆っている。タルシスには珍しいどんよりとした天気だ。
 冒険者ギルドにも午前十時の鐘が鳴った。約束の刻限になった。
「全員揃うと壮観だな?」
 ブレロが会議室を見渡す。招集で新生・銀の稲穂団が揃うのは初めてだった。冒険に出発するわけではないので軽装なのがやや残念でもあり、楽しくもあった。何しろ今は女子が多い。
 冒険に出るわけでもないのに、みな緊張の面持ちをしている。ブレロも少し緊張していた。悪いことを話すわけではないのだが、きちんとしなくてはいけない。
「そういうわけで何かと騒いで申し訳ない。俺は無事だし、銀の稲穂団は今後も何らの変わりはない。一週間、ありがとう」
「木偶ノ文庫、次で最後にしよーぜ。もー待ちすぎだ」
 ギノロットが不満の声を上げる。
「ぶっちぎるつもりでやってくれ。頼りにしてるぞ相棒」
「あのね、モモおぼえたよ。ヒールマスタリとれた!」
「早い! もうか?」
「もうだよ! えらい?」
「偉い! 俺に褒めさせてくれ!」
 抱きついたモモがイイコイイコされてにこにこと悦に入る。マドカも満足そうにしていた。
「モモはかなり完成したわよ。方陣と医術の組み合わせが上手になったから、長時間でもきっと平気だと思うわ。二班も頑張ってるしね」
「でも先輩に報告できるほどのことはなかったりして」
 エリゼがちょっと残念そうに言った。ニョッタと顔を見合わせる。
「私の印術が外れたり当たったり、作戦がうまく行かなくて」
「おっけおっけー。その代わりウチがサクサクーッと切っちゃうし、へーきへーき」
 ハンナがニンマリすると、そうそうとエリゼたちが沸き立つ。マドカが説明を引き受けるに、
「ハンナの投刃と身の軽さが、二班はとっても噛み合ってるの。ニョッタが失敗しちゃっても、エリゼの盾とハンナの力でカバーできるのよ。私の回復もそれなり役に立ってるし」
 えっ、とブレロは言葉を失った。それはどういう意味なのだ。
「またマドカ小さくなってる」
「だって戦うのは苦手だし。治療は常に後手だもの。あんまりいいところはないから……」
「そんなのいいよ。治してよぉ」
「マドカがいなかったら私死んじゃう!」
「エリゼがダントツで死んでるよね、きっと」
「あなたは男気出しすぎなの。ありがたいけど、もう少し遠慮してってば」
「でもエリゼディバイド格好いいよね?」
「かっこいい。愛してるわ! でも第一目的は死なないことよ! 本当にわかってるの?」
 女の子たちがきゃいきゃい言うのを聞いて、ブレロは目を見開いた。胸がざわつく。
「……マドカ、いいのか?」
「だって未経験の女の子が三人だけなんて、あんまりじゃない?」
「いや、それはそうかもしれんが。よそのギルドの冒険者を借りるとかギノに聞いたぞ?」
「交易場まで行きかけたけど、女の子ばっか〜って思われて癪だから、やめちゃった。三人は厳しくても、四人なら結構頑張れるしね? 女子だけって、気楽でいいわよ」
「……無理してないな?」
 恐る恐る聞く声に、どうしてもなってしまう。マドカ、君は本当にもう進んでいいのか。
「このくらいなら、問題ないわ。手が足りなかったらそのときこそ人の力を借りたらいいのよ。しばらくは経験積んで、ずぶの素人って言われないようにしなくっちゃ。ね?」
 なんのかんの、彼女はメディックのマドカである。マドカはしぶとい――ブレロは天を仰ぎ、彼女の微笑みを記憶に焼きつけた。マドカは俺が思ってるよりも、ずっと強い。

「なんか、よかったっぽいな」
 ギノロットが手の中の刀をくるくると回しながら独り言のようにつぶやいて、ワイヨールもそれに首肯した。
 ギノロットが訓練に付き合えというから、ブレロは装備を固めてギルドの訓練場が空くのを待っている。装備を一新したギノロットは、そのまま迷宮に出かけるのが心もとないのだった。
 連携を取る練習をしたいとか一班の技を盗みたいとかで、結局九人全員が揃っていた。女の子たちがみんなで話しているのを尻目に、男三人はぼんやり訓練場の様子を眺めている。
「ブレロはいいとして、マドカのことは心配だったからねえ」
「俺はいいのか」
「お前は大体、何とかしてくんじゃねーかよ」
「大丈夫な人はよそんちで暴れたりしないしね」
「自宅で暴れたのは数えねえのか」
「お前はどーせ死んでも帰ってくんだろ? マドカは死んだら帰ってこれねーやつだ」
「実際死亡宣言出たしさ。二班ができて一番幸運だったのはマドカかもよ」
「そうだな――レリッシュがニョッタとハンナを招いてよかったよ。俺もエリゼの話を聞いてやれたし」
「……危ねー目に遭うのはナシだ」
 ギノロットは口を挟んだ。レリッシュとハンナが知り合った経緯について、彼はいたく不満を抱いており、そのために銀の稲穂団の会議は常に夕暮れ前に終わらせるのが常になっている。
「それはもう終わった話じゃない。もういいでしょ、結局丸く収まったんだから」
「よくねーよ。相手悪かったら死んでんだぞ。ハンナがバカで助かっただけじゃねーか」
「おい。それは冒険をやめろってことと一緒だろ。それ以上は許さんぞ」
「人間相手じゃ話違うだろ。許すも許さねーもあるか」
「……じゃあわかった、許してやらん。日暮れ以降のレリッシュの外出はお前が警護しろ」
「ハァ? けーご? 何それ」
「いいねえ。ちゃんとペース合わせて歩くんだよ」
「荷物も持ってやれよ。人混みは手を引いてやれ」
「やだぁ、デートみたいじゃーん」
「門限は八時」
「チューまでなら許してやる」
「やめろ、そーゆーのいらねー」
「待て待て、レリにだって選ぶ権利があるんだぞ。ギノさんなんか嫌ですって言われたらデートどころじゃないよ」
「ははん、でもブレロなら安心です? それは超嬉しい、俺は喜んで抱っこして歩く」
「お姫様抱っこして歩こう」
「ガラスの靴を履かせてあげよう」
「……やっと『氷刹』覚えたから、お前なんかぶん殴ってやる」
 適当に煽ってやったら、ギノロットが相当に刀の訓練をしたがっていたことが明らかになり、楽しいブレロは接待で数発食らってやったあと、続くそれらをことごとく無効化してみせた。
 レリッシュは知らないうちに警護役ができた。教えていないから、きっとまだ知らない。警護役も警護の意味を知らなかった。