ブレロと銀の稲穂団 3

 体中に衝撃が走り、苦しくなって目が覚めた。飛び起きたいほど苦しかったが恐ろしく胸が気持ち悪いし、頭がズンと重たい。ブレロはうぅと呻いた。
「悪ィ、ベッド蹴っちまった……」
 お前のせいかよ。必死に視線を動かすと、窓際に陣取ったギノロットが子供用の教科書をめくっていた。この男はなぜいつも日向を占拠するのだ。
「何ここ、宿なのか」
 喉が荒れているようで声がかすれている。どれだけ飲んだ俺。
 水あるぞ、と言ってギノロットが指差したサイドテーブルではグラスが光を反射してまぶしく、目がくらむ。起き上がってグラスの水をゆっくりと飲み干した。なぜセフリムの宿にいるのかわからない。
「帰ってきた記憶がない……」
「丁寧に服かけて歯磨きして寝てたぞ」
「いま何時だ」
「一時回った」
「腹が減った」
「女将さんに頼んできてやる」
 ギノロットは教科書を投げて颯爽と部屋を出ていった。鮮やかな身のこなしが羨ましいと同時に教科書が椅子に叩きつけられ頭に響いて不快になった。ヴァー。やめろぉ。
 六人用の大部屋はブレロ以外に誰もいない。各々の荷物がベッドの下や足元に雑然と置かれているだけだ。みな丁寧にベッドを整えてあり、とっくにどこかに行っているらしい。背後の大窓から梢の揺れる音と小鳥のピーチク鳴く声がする。日曜日の街は喧騒もまばらだ。寝間着越しに太陽が当たって気持ちがよい。
「ヴァー……」
 背中を暖めながら昨夜の行いを振り返ってみると、自分のだめっぽさが嫌になってもう一度布団に潜り込んだ。
 俺はひどい大人だ。
 世間の清浄を耳で確認し、明日からあそこに帰らなきゃな、と体中の古い空気を新鮮なものに入れ替えようとしてみても、なかなか交換ははかどらない。
 ちくしょう。くやしい。
 そのまま布団の中でとろとろと眠っていると、ギノロットが食事を運んできてくれた。賽の目に刻んだパンとキノコと白身魚をほぐした牛乳のスープだ。口に運ぶと塩の旨味とまろやかな牛乳の匂いがした。優しい胃の満たし方で、ずいぶん沁みた。ギノロットの皿はパンが幾切れかと、魚のソテーだった。どちらの皿も美味しそうなよい匂いがした。
 ギノロットが「そーいえば」とパンを口に頬張りながら渋い顔をして、鼻を鳴らした。
「俺、ついにあの女子寮とかいうのに行かなきゃなんねー。ワイヨールにお使い頼まれた」
「すげえ、女の園じゃねえか!」
 女子寮はいつでも行けるわけではない。彼女たちにはメダルが一枚与えられ、外部の者はそのメダルなしには面会はおろか、門を越えることさえできない。たちまち門番に捕まえられて、衛士に突き出されることだろう。
 冒険を認められたマドカは親に渡されるものともう一枚、特別にメダルを持っている。それがワイヨールの元にあったはずだが(ブレロが受け取ると言ったら、マドカは曖昧な理由を述べて拒否した)、今、ギノロットのところにあるらしい。
「廊下の影に女がいっぱいいて、こっち見てくんだって」
「バカ、ちゃんとした格好で行け、ちゃんと」
「マドカと話すだけじゃねーか。このまんまでいーよ」
 顔をしかめて反論してくる。いつもパーカーだのハーフパンツだのいう、どうかすると寝間着みたいな衣服で界隈をうろうろしているのがこのバカだ。筋肉でつかえて気分よく着られる服がないという。大の男が脛を出して歩くなと時々ブレロはギノロットに言うが、聞く耳を持たない。
「可愛い子がいるかもしれないのになんて言い草だ。無条件でモテてるんだぞ」
「影から見てくる女なんかヤダ」
「ちくしょう、いいなあ。俺も女子寮に行きたい」
「いいから寝とけバーカ」
 ベッドの枠を蹴っ飛ばされて、ブレロはうっと頭を抱えた。

 あらましを玄関で聞いて、マドカはまぁと口元を押さえた。
「じゃあ、大事なことは何も聞けてない?」
「そういうこと。でも……」
 不機嫌そうなギノロットは、壁にかけられた油絵の前から少しも動こうとはしなかった。なんてことはない、タルシスの街の遠景を描いた風景画だ。気球艇から何度も眺めたことがある、冒険者なら飽きたであろう風景を、ギノロットはずっとずっと睨みつけている。正確に言うと、現実から目を逸らしていた。
 少しでも動くと、群がった寮生たちがきゃあきゃあ言っているのとまともに目が合ってしまうからだ。ギノロットは完全に困った顔をしている。
「あっちに応接室があるから、行きましょ。詳しく聞きたいわ」
 ワイヨールとの落差に笑いが堪えられなくなりながら、マドカは身を翻そうとしたが、
「……どっか別の場所じゃダメ?」
 ギノロットが食い下がる。
「ダメよう。今日は一日寮にいるって、もう寮母さんに言っちゃったもの」
「……そこを何とか……俺ここダメだ……」
 心底弱りきった声で、彼は顔を覆った……マドカから見ても悪くない精悍なギノロットは、今やもう単なる寮生たちの目の保養になっている。落ち着きのあるワイヨールとは違って、まだそこはかとない少年の匂いがして、存在がファンタジーすぎて、まさに珍獣だ。
「仕方がないわねえ!」
 ちょっと待っていて、と手を振ると、耐えきれないギノロットは玄関の外まですたこら逃げていってしまった。

 寮母は最初渋っていたが、途方に暮れたギノロットを一目見て、あまりにも哀れに思ったのか管理人室の奥に案内してくれた。職員が使う応接用の一角であった。浮足立つ雰囲気が途端に消え去り、ギノロットは安心した顔でソファに埋もれた。
「悪く思わないで頂戴ね。どうぞくつろいで」
 体格のよい寮母は彼に温かいコーヒーを一杯差し出した。
「ありがと……」
 普段よりもずっと小さな声しか出ないギノロットである。迷宮での勇ましさは微塵も感じられず、マドカはくつくつ笑いする。ギノロットは出されたコーヒーを一口飲んで、呼吸を整えた。それから昨夜ブレロがコーヒー酒を飲みながらしていた話を、マドカにもそっくり聞かせてやった。
「……でもさ。爺さんの話すると、打たれた犬みてーな顔すんだよ。なんかすげー嫌っぽくて、そっから先はだめだった。俺ずーっと素面で聞いてたけど。全然要領得ねーし、どんどん使い物なんなくなるし、やめた」
「大変なお家なのかしら。どんなだったか言ってた? 家族とか、お家の仕事とか」
「ひー爺さんとかがデカくしたって話? あとは爺さんと親父と、例のなんか似てる兄貴と。俺が聞いたのは、そんくらい」
 うーん。マドカは腕を組んで考えた。実を言えばどこかで聞いたことがあるような、ないような気がする一家だったからだ。あともう少しで出てくるような感じだけれど、そのもう少しが出てこない。
 だが、マドカは一つの確信を持ってギノロットに頷いてみせた。
「わかった。ここは私が一肌脱いであげるわ」
「……ホントにだいじょぶかよ?」
「安心なさい、チョチョイのチョイよ。明日にはブレロの面白い顔を見せてあげるわ」
 マドカはにっこり微笑もうとして、だが、ふと不安になって付け足した。
「……ねえギノちゃん。私もブレロみたいに、言わなかったことがあるの。ちょっと今回、乱暴するけど、次はきちんと話すから、また仲間と思って挨拶してね」
「別に、いーよ」
 ギノロットはコーヒーに口をつけ、視線をさまよわせる。声のトーンが一つ落ちた。
「隠し事なんて誰でもいくらでもあんだろ。俺だって、ねーわけじゃねーし……とにかくなんか手があんなら、マドカに任す」
 嬉しくなったマドカは大きく息をついて微笑んだ。立ち上がってギノロットの薄い頬をぎゅうぎゅう挟んでやると、彼はやめろとか何とか言って、ジタバタした。

 窓際でギノロットが子供用の教科書を読み続けている。疲れた顔でお使いから帰ってきて、ブレロに背を向けて、ずいぶん素っ気ない態度しかしないので、お使いは済んだのか聞いたら、一応それは果たしたらしい。彼の手にはメダルがなかった。マドカへ返却したそうだ。
 女子寮でどんな目に遭ったのか知らないが、何も話してくれないのが気に食わなかった。さぞかしおもちゃにされたのだろう。教えてくれないだなんて、ずるい。
 窓の外から時を告げる街の鐘の音が一つ響いた。一刻を知らせる鐘だ。途端にギノロットは椅子を蹴立てた。
「何だいきなり」
 静かに新聞を読んでいたブレロは文句を言った。そうでなくても頭に響く。
「行ってくる。つーか、お前早く着替えろ」
 言うが早いが教科書を投げ捨て、ギノロットは走り去って行ってしまった。教科書の炸裂音がまたブレロに一撃を食らわす。あの野郎、取り上げるぞ。
 床に捨てられた哀れな教科書をギノロットの丸椅子へ拾ってやり、ベッド下の収納から着替えを探し出した。どうせ出かける用事もないが、ギノロットは正しくはある。いつまでも寝間着でぐうたらしているのはよくない。
 何を着ようかブレロがのんびり考えていると、遠くから誰かが走ってやってきて、ブレロの六人部屋の前で止まった。振り向いてみればいなくなったばかりのギノロットではないか。どこへ行って戻ったのやら、軽く息が上がっている。
「だから早く着替えろっつったじゃねーか!」
「今さっきの話じゃないか、理不尽なこと言うな」
 あと声がうるさい、それと本は投げるな。
「あーもー、髭も剃ってねえのお前! 早くしろよ!」
「何を勝手ばっかり言ってるんだ、しまいに怒るぞ」
「お前に怒られたってどーでもいーんだよ。すぐ着替えろ、さっさと行くぞ」
「知らん、一人で行け」
「俺が行ってもしょーがねーんだよバカタレ! 裸で連れ出すぞ!」
 一人で勝手に柱を殴りつけて怒るギノロットである。
「何だか知らんがいい加減にしろ。俺が二日酔いだからって舐めてるのか?」
 話が通じなくてイライラしてくるブレロは、すぐに出てきた花柄のシャツとサロペットを、とりあえずは着た。するとたちまち腕を掴まれ、部屋の外に連れ出された。
 ――もういいや、どこへ行くか知らんが。
 まだ体調はちっとも改善していないが、歩くことは歩けた。ただ役に立たない連れ合いなだけだ。だが、ギノロットの足はセフリムの宿の玄関を出たところで止まった。止まっても致し方ないとブレロは思った。いやこれは止まる。だって何この、何なの馬車。
 なぜだか知らないが二頭立ての、かなり手の込んだ黒塗りの馬車が停まっている。何が来たんだ、何が。辺境伯か何かか。たまに女将さんの飯を食いに来るとは聞いたことがあるが、ブレロはちょっと呆れた。こんな静かなところに、わざわざ馬車で乗りつけてくるな。
「ほら行け」
「あっ?」
「あーじゃねー、待たせんな。あれマドカだ」
「何を言ってんの? 馬車だろ?」
 ぐちゃぐちゃ言い合っていたら、黒い制服と帽子を身に着けた御者が、ドアに手をかけて静かに睨みつけてくる。ついでにドアの内側からゴスン、と何かの衝撃音がして、車体が少し揺れた。かわいそうな馬が少し浮き足立った。それを見てブレロはようやく『マドカかもしれない』と納得した。変な笑いが出てくる。何だこれ。
 ブレロが一歩進み出ると、御者は慣れた手つきでドアを開けた。こちらからはまだ車内がわからない。ブレロは仕方なく何かを覚悟してステップに足を掛ける……まさかサロペットで黒塗り馬車に乗る日が来ようとは。
「――あら、今日はファンキーねえ」
 馬車の主の第一声がそれだった。手すりを掴んで、ブレロは軽口を叩いた。
「何でも俺に似合うから困るよな?」
「そのドレスシャツは素敵だけど、早く乗りなさいな。彼を困らせないで。ギノちゃん、ありがとう」
 ブレロが対面に腰を下ろすとドアはすぐさま閉まり、御者の掛け声一閃、鞭を振るうと馬を走らせはじめた。
 マドカは鴇色のドレスを身に着けていた。胸元を開いたクラシックなデザインのシルクで、胸元に生地と同じ色のツタの刺繍が施してある。体の線に完璧に沿った衣装は、腰に入る皺でさえ計算されているのが、ひと目でわかった。派手さはないが一流の衣装だ。……獣王に受けた左腕の傷はすっかり覆って隠してある。
 マドカは当たり前の顔をして、小さな裸足の右足にドレスと同じ色のヒールを履き直した。――その足で蹴ったのか。恐ろしい女だ。
「いろいろ聞きたいことはあるでしょうけど、」
 ブレロの一度も見たことのない綺麗な化粧をしたマドカは、ほんのりと甘い香りを漂わせながら言った。
「すご〜く顔色が悪いから、横になってたほうがいいかもね」
 揺れる馬車の中で、そうせざるを得ない二日酔いのブレロである。ぐったりと目を押さえながら、
「どこへさらわれてるんだ、俺は」
 と問いかけると、
「具体的にはあなたのお家ね」
 ブレロは思いっきり叫んだ。状況が一切掴みきれずに跳ね起きた。――しかし鴇色のマドカは平然としている。
「何が起きてるんだ! 俺は処刑でもされるのか!?」
 マドカは居丈高に鼻で笑った。
「そんなやつがいたら、ギャフンと言わせてあげる。安心して」
 楽しみだわねえ。魔女はニコニコとしている。ブレロは沈没した。

 口の中をからからにしながら、ブレロはマドカを部屋に招いた。女性を私室へ招くのに、こんなに辛い思いをするとは思いもしなかった。差し当たっては水が欲しくて、ブレロの到来を予期していなかった慌て顔の使用人に、その手からマドカの大きな荷物を受け取って、引き換えにたくさんの水と、ついでに薬を頼んだ。
「簡素で落ち着いてるお部屋ね」
 マドカは椅子に座ると、満足そうに肘かけを撫でる。マドカも気づいたことだろう。その肘かけを触るとすべすべとして、とても居心地がいいはずだ。木の素材しか使わない単純さながら、決して悪い品ではない。
「ゴチャゴチャ飾るのは性に合わないんだ」
「奢侈が嫌いなのね」
「……そうだな、嫌いだ」
 答えてみると、声が重たくなる。
「ふむふむ。何だかいろいろ見えてきたわ。……ねえ、そんなことよりぱぱっと着替えちゃってよう。お水が来たらもらってあげるから」
 ヒェッ。ブレロは息を飲んだが、マドカは躊躇なくクローゼットの扉を開けて物色し始めた。女性の前で着替えなんてとんでもないと戸惑うブレロだが、しかし止める間もないのであった。マドカにとっては男の裸ごとき、治療で何度も診ているくらいにしか思わないのかもしれない……いろいろ考えて、彼は諦めた。マドカはきっと折れない。
「どれにしようかな〜。何色がいいの? 全部同じに見えちゃうわ。ピンクはない?」
「さすがにそれはないな……」
「男の人の服は退屈ねえ」
 退屈で全部同じと言われてしまえば、基本形は確かにバリエーションが少ない。ブレロはうなった。
「そういえばサブダンサーを選んだときに、愉快な服を着させられたぞ」
 まずは形から入れと衣装を押しつけられたのだ。マッスルダンサーができあがったときは泣きたくなった。コスプレしたいわけじゃない。
「よくサブダンサーにしたわよねえ、感心するわ」
「フォートレスの間じゃ有名だからな。何でか知らんが、ワルツも踊れた気がしたし――知ってるワルツと全然違ったけどな」
「見たいなあ、ブレロのリフレシュワルツ」
「マドカが盲目になったときにな」
「んもう。つまんないの」
 ドアがノックされ、マドカは「はっは〜い」と機嫌よくワルツのステップを踏んで応じた。水と薬がトレイに載ってやってきた。さすがに帰り道は、ステップを踏めない。
 マドカはグラスに水を注いでくれた。飲みたいだけ飲んで、薬も口に入れる。粉薬なので飲みにくく、苦戦した。
「二日酔いのお薬?」
「うん、もらったよ。もうかなわん」
「粉じゃなければ、も少し楽なのにねえ」
「でもここのが一番飲みやすい気がするよ。粗めの粉だからかな」
 包み紙には、ブレロも薬店でよく見かける印が描かれている。この製薬会社は昔からあるらしく、どんな薬でもたくさん出しているのを知っていた。
「よくわかるわね。薬ソムリエね」
「不名誉な気がする……」
 ブレロは適当なセットアップを選び、シャツを引き出しから取り出した。いくら何でもよそを向いてろと言おうとしたが、その前にマドカはネクタイを選ばせろと主張した。仕方がないので、小引き出しからネクタイを見せる。服は退屈でもネクタイはよりどりみどりのはずだ。マドカは楽しそうに一本ずつ検分を始めた。ブレロはマドカの死角に回って、脱いだ服を椅子にかける。
「お揃いにしましょ。ピンクがいいな」
 だからピンクはないって。
「そんな浮かれた気にはなれねえよ。青をくれ」
「じゃあ、この根暗なブルーね」
 なぜ根暗を選ぶのか。
「緑は」
「淀んだ川に浮いてる藻みたいなグリーンならあるわ」
 ひどい。もうそのタイを締められなくなるではないか。
「……紫」
「あ、あったわよ。薄紫色。朝焼けの色みたい。きれい」
 ずい、と差し出してきたネクタイは、ブレロにとってはほとんどピンクだった。いつの間にこんな色を作ったのかまったく思い出せない。無駄と知りつつも悔しいので、ややひったくり気味に受け取ると、マドカはまた引っこみ、次はタイピンをためつすがめつ始めた。
「着るほうはそんなでもないけど、」
 マドカは一本をかざしながら言う。
「タイとタイピンはあなたって感じがするわね。カフスもそうなのかしら」
 女性だからそんなことまで分かるのだろうか。まるで魔女の尻に敷かれているようだ。――ああ、そうしたら、いくつかのタイの隅に『Fernan.B.D』と、稲穂の意匠が縫いつけてあるのにも気づいただろうか。
「セットは高いだろ。でもアクセサリーは、量産してても面白い品はあるし、自分の金で買える。タイは発注してもそんなでもないしな」
「選ぶ楽しみってこと?」
「……それこそ俺の砦だよ。他のは全部、何もかも他人のものに過ぎないんだ、俺にとってはな」
「そう――そうなのね。立派だわ。私はそんなの、考えたこともなかった」
 いよいよネクタイを締めたら、マドカが勝手にタイピンを差した。数歩下がって上から下まで値踏みされ、「おっけい」と頷く……そして彼女は真顔になり、おもむろにつぶやいた。
「あなた、お金の使い方を教えてもらわなかったのねえ」
 どういう意味か理解しかねてブレロが何も答えずにいると、マドカはもう少し続けた。
「少なくとも、金品に囲まれても幸せそうじゃないわ」
「……まあな」
「それでもあなた、とっても、遊ぶのが好きね。そうじゃなかったらお花のシャツは着ないもの。……さては、家では落ち着いて暖炉の火でも眺めていたいタイプと見たわよ」
「マドカ、占い師か何かか?」
 うふ。マドカはうっそりと笑った。
「本日は僭越ながら私が、本気のお金の使い方を見せてあげようと思って来たの。全力出すわよぉう」
 どこかで聞いたことのある口調で、彼女は意味ありげに腕を組む。何一つよい予感がしない。
「おじいさまのところへ行きましょ。話がしたいから」
「えっ」
 何それ。何を話すの。俺は話すことはない。しかしブレロの戸惑いは完全に置いてけぼりで、顧みられることはなかった。
「私の隣でウンウン頷いていてくれたらいいわよ。あ、でも髭と髪の毛、それはだめよ。何とかして」
 ブレロはブンブン振り回されて、言うことを聞くしかないようだった。二日酔いのせいだけでなく、何も予想がつかず、耐える以外は何もできない……。

「ごきげんよう、初めまして、ブレロのおじいさま。マドカと申します」
 祖父は彼女が来ることを知っていたようだった。まだ床についていたが、準備万端の様子で起き上がっている。祖父は好々爺の顔をしてマドカを歓迎し、マドカも応じる。見るも優雅なカーテシーだった。何もそこまで。……しかし祖父の好みではあった。
 マドカは勧められてベッド横のソファに腰掛けるが、ブレロは続こうかどうしようか一瞬ためらった。ソファが二人掛けだったのだ。祖父はきっと勘違いしていた。しかし正しくはどういう関係かは、もうわかったろう――マドカは俺をブレロと呼んだ。フェルナンではなく――仲間のたくらみに乗るために、ブレロは座った。
 そこのマドカが良家の淑女ということは疑いようもなかったが、彼女のペースはどうにも理解を鈍らせる。きっと祖父も同じことを思っているだろう。時々、説明を求めるような目でブレロを見るのだ。しかしマドカは天気だの季節だの怪我の具合はどうかなどの話でなかなか本題に入らない。かと思えば、
「銀の稲穂団の噂はお聞きになって?」
 出し抜けに話題を変える。お前はカメレオンか――ブレロは目眩がした。
「よく聞いておるよ。そこなる孫がその一人だとは昨日聞いたが」
 すると鈴を降るようなマドカの笑い声が響く。棘のある祖父の態度など、取るに足らないとでも言いたげだ。
「お嬢さんの微笑みに変わるなら結構だがね。祖父としては面白くはないのだ。隠しごとをされて気持ちのよいことなどあろうかね。言ってやっておくれ」
 マドカはくすくす笑っている。
「隠し事なんて、誰でもいくらでもあってよ。私だって、ないわけでもないし」
「お嬢さんからはたくさんの秘密の匂いがするな」
「んもう。聞かれれば答えないでもないのよ。隠さなきゃいけないことは、これでも少ないの。ブレロよりもずっとね。家族のおかげだわ」
 マドカの言葉は遠慮なくブレロの臓腑をえぐる。祖父の目つきが変わった。
「それでは、何をしに来たのか率直に言ってもらおうか。年を取ると気が短くてならん」
 うふふ、ありがとう。マドカはにこにことした。さもいいことを思いついたのだと言わんばかりの笑顔で、ぽんと手を合わせた。
「私ね、彼の人生を三十歳まで買い取ろうと思って。言い値でよくてよ」
 ブレロはたまらず噴き出した。どうしてそういうのを先に言わないのだ! 話を合わせようにも何もできないではないか! しかも令嬢に買い取ると言われると強烈に恥ずかしい! ――暑いやら寒いやら具合が悪いやらで、隣で聞いていて生きた心地がしなかった。
「何を馬鹿げたことを、お嬢さん。フェルナンは奴隷ではないのだよ」
 それこそ笑える話だと祖父は切り捨てた。馬鹿げているのはブレロも頷ける。というか目蓋を閉じてこっそり同意した。ジイさん、もっと言ってやってくれ。
「いやねえ、安心なさって。今日まではお家の奴隷だっただけ。明日からブレロの奴隷に鞍替えするだけよ」
 どっちに転んでも俺は奴隷かよ。心の中ですかさず文句を言ったが、次に聞こえた言葉で、ブレロはマドカの勝利を確信した。
「――口の減らぬ娘だ」
「口から先に生まれてきたのかしらねって親も言ってくれるわ。ふふ」
 煽り合いには先に噛みついたほうが負けと決まっている。マドカは相好を崩さぬままだ。
「そうだろうとも。おまけに無礼だ」
「おてんばマドカって評判だったの。あのね、お金の力で踏みにじるのって、私、だ〜いすき。札束で気に食わないやつの頬をひっぱたくのって、とっても清々するわ! でも、おじいさまと違ってなぶるのは好きじゃないから、わかりあえないわよね」
「なぶるだと? 儂がフェルナンをか? ずいぶんと知ったような口を利くが、君に何がわかるね」
「まあ、罪深いのね。お家の水がなじまなくって、今にも溺れ死ぬところだったのに。あんまりジタバタしてるから、捕まえるまでちょっとかかったのよ。でも助けてあげなくちゃ、私の大切な仲間だもの」
 言って、マドカはドレスの胸元を引き下ろした。コルセットが顕になり、そして見るも恐ろしい、左腕の太い獣傷が無残によぎっていた。
「マドカ!」
 乙女には残酷すぎる、一生消えない、何針もの縫い傷だった。ブレロはマドカがその傷を負ったときのことを昨日のように思い出す――急いで上着で隠したが、マドカはあくまでもやんわりとブレロの拳に手を置いて、
「これは私への当然の報いよ。でもあれからは全部、あなたが肩代わりしてくれたわよね。おかげでまだ生きてるわ、ありがとう。私たちにはあなたが必要よ」
「そうじゃなくて。俺たちが見ていいものじゃないだろ!」
「あら。前にも言ったけれど悪くない傷よ。いつか無謀な冒険者が私のところに来たら、脅かしてやれるもの。どんな患者だって大人しくなるわ」
「俺はそんなことを言いたいんじゃない!」
「そんなに怒らないで、あなたにはお釣りを少し返すだけ。で、これはおじいさまへの一番肝心なもの」
 マドカは胸のまだ奥から何かの紙片をつまんで祖父の膝に置いた。胸から膝へひらめく間、とても甘い香りがブレロの鼻をくすぐった。それは品のよい淡いブルーの封筒だったが、ドレスとコルセットに挟まれて、せっかく捺した真っ赤な封蝋がくしゃくしゃになってしまっていた。
「ユーイングっていうお薬の製造業者はきっとご存知よね。さっきお宅の常備薬になっているのを見たわ。何百年もお仕事していたら、どこでも使ってもらえてありがたいわね」
 あくまでも顔色を変えない祖父はゆっくりとその封筒を取って、封蝋の印章を確かめた。家の頭文字を意匠に捺された封蝋だった。
「おじいちゃまが小切手をくださったから、ぜひどうぞ。私の命を助けてくれたんですもの、いくらでも結構って。お好きな額で切って。……さ、私のお話はおしまいよ。これ以上お怪我に障ったらよくないから、失礼するわ」
 急に押しかけてごめんなさい。ごきげんよう。どうぞお大事に。マドカは優雅に席を立つと小悪魔的に手を振って、つま先を翻した。亜麻色の柔らかい髪がゆらゆら揺れて、ご機嫌に去ってゆく。
「……何だ、あの娘は」
 表情を失った祖父が、ブレロから何かを得ようとしたが、ブレロは心臓がバクンバクン言っているだけだった。
「僕も……かなり初めて聞きましたので……いろいろ何とも……」
 困惑顔で返答せざるを得ない。すると、
「ねえちょっと。私のフォートレスは裸の女性を一人で行かせるの? 私の恥をかく顔がそんなに見たい?」
「――わかったから! 嵐かお前は!」
 ブレロは仕方なしにそそくさとその場を離れる。本当、何なんだ。マドカをかばって廊下に出ながら、だが、ほくそ笑むのが抑えられない!

 部屋に戻ると、テーブルの上にホットチョコレートと果物が盛られていた。チョコレートはマグに蓋がされていたが、部屋にはいい匂いが漂っている。おそらくはここで入れたのだろう。
「ああ、気が利くう。おいしそう〜」
 そう、うちの使用人は客をもてなすのは得意だ――マドカはイチゴを一粒口に放り込み、バナナをむしってブレロに投げた。
「助かったところで……説明してもらおうか、マドカ」
 ブレロはバナナを受け取るが、そのままポケットに突っ込んだ。しかしマドカはチョコレートを一口飲み、頬をふくらませる。
「何よう。これ以上説明がいる?」
「いるに決まってるだろ! 一から十まで意味不明だ!」
「じゃあ質問して、答えるから」
「君は一体何者だ!?」
「ユーイングさんちのマドカちゃんといえば、社交界じゃちょっとはおてんばで有名よ?」
 ブレロはあんぐりと口を開けた。社交界なんてブレロには縁がないし、家族の誰も興味を持っていない。知る由もない。
「今思えば、あなたのお家の名前は……パーティではそんなに見かけなかったかもしれないわねえ」
 ひねくれたものの言い方だ。ブレロはカチンときた。
「織り込み済みでジイさんに喧嘩売ったな!?」
「人聞き悪いこと言わないで。金持ち喧嘩せずって知らないの?」
「誰がどう見てもブン殴ってたよ! 真っ正面からな!」
「怪我してないんだからいいじゃない」
「いいものか、カネに物を言わせた侮辱だろ!?」
「……だったらあなたが頭下げて謝ってらっしゃいよ! お望み通りに情けない頼りないフェルナンに戻るがいいわ!」
 胸を強く突き飛ばされたが、マドカの細腕ではびくともしなかった。彼女は怒りで息を荒くしている。吊り上がった眼尻は今にも涙をこぼしそうに真っ赤になっていた。
「ギノちゃんに全部聞いたのよ。おじいちゃんの話すると、可哀相な顔するって。助けてあげたかったのよ。あなた、何のために冒険者になったの? 今さら誤魔化さないで!」
「――わかったから、ドレスを何とかしろ」
「じろじろ見ないで! 失礼ね!」
 我慢ならない顔でマドカはくるりと背を向けた、ブレロも背中を向けた。マドカが持ってきた大きな鞄がガチャガチャ開く音が聞こえた。ブレロは黙って椅子にまたがった。
「ギノちゃん、お酒飲まないであなたのお話聞いてたって。知ってた?」
「今初めて聞いた」
「あなたを宿まで運んであげたんですって、大きいあなたなんか重たいでしょうに。あの子、優しいわよね。なのにぶきっちょで、かわいいの」
「そうだな」
「秘密なんて誰でもいくらでもって、あの子が言ってたのよ。俺もあるからいいよって言ってくれた。……あの子でも秘密、あるのね」
「何だろうな」
「無理には聞かないわ。助けが必要なら言ってほしいだけ。一人で苦しんでるなんて嫌なのよ」
「ああ」
「私は単に暴力振るいに来ただけだから、いいけど。あの子には何か言ってあげて。喜ぶから」
「……暴力の自覚あるのか。呆れた」
「それはこっちのセリフよ。使えるときに使わないなんて、馬鹿みたいだわ」
「本気出したカネの使い方って、そういうえげつないことじゃあ……」
「何度も言うけど、あなたは私を守ってくれたわ。だから私たち、みんなあなたを愛してる。大切なあなたを守るためにやっただけよ」
「それにさっきから当たり前みたいに言ってるが、実際はマドカのカネじゃないだろ?」
 肝心なところを突いてみると、マドカの答えは一瞬切れた。どういう意味の沈黙なのか顔を見ないとわからなかったが、当然ブレロは振り向くことができない。
「私の意見に賛同してくれたおじいちゃまのお金を、おじいちゃまに代わって私が使うの。だからほとんど、私のお金よ」
「そんな無茶苦茶な」
「……私、あなたみたいに押しつけられて、でも押しつけられたまんま、めそめそ泣いてるお利口さんじゃなかったの。えげつないとか、女の子らしくないって言われたって、頭に来たら引っ叩くのよ」
 ブレロの背中に、貸した上着が投げつけられる。何も痛いわけはないのに、ひどく鼻先に刺さる気がした。
「……ごめんなさい。着替え終わったからもういいわ」
 マドカの涙声を聞いて、ブレロは慌てて振り向いた。見慣れた制服姿になったマドカが一生懸命涙をこすっている。
「おい、ポケットにバナナしかないんだ。泣くのはやめてくれ」
「本当にごめんなさい。あなたもお着替えどうぞ。宿に戻りましょ」
「……待ってる間にバナナでも食って、機嫌直してくれ」
 バナナを差し出すと、泣き顔のままマドカは笑った。

 着替えが終わってさっさと退散しようとしたら、マドカがドレスとヒールを放ったらかしたまま、手をつけようとしない。空の鞄を膝に載せて美味しそうにバナナを頬張り、チョコレートを飲みきった。だがドレスは主をなくしてぐったりとしている。マドカがのんびり櫛形のオレンジをつまもうとしたので、ついに指さして聞いた。
「それ……どうするんだ?」
 あるいは洗ってやりでもすればいいのか。いや、ドレスとは洗えるのだろうか――マドカはきょとんとした。言われて初めて気がついたという顔である。
「あっ。せめてゴミ箱に捨てたらよかったわね?」
「捨てるのか!?」
 ブレロは向き直る。派手ではないが地味とは違う、肝心な部分をしっかりと押さえた、一目見て仕立てのよいドレスである。きちんと手入れをしてやれば、いつまでも来ていられるだろう。それを今捨てると言ったか。
「あんな屑かごに入るかしらねえ……」
 ドレスを掴んで窓際の机の下の、小さな屑入れと見比べた。どんなに力ずくで詰めたところでドレスなど入るわけがない。膝丈にもならない屑入れにどう詰めるのだ。
「靴なら入るかしら」
「壊れるからやめろ。持って帰れよ」
 フラミンゴのような美しい色のヒールを片方突っ込もうとするので、ブレロは少し怒った。だがマドカは信じられないという顔をした。
「嫌よ、この後は寮にすぐ帰るもの! こんなかさばるもの、持っていけないわよ。置く場所もないのに」
「だからってここに捨……、」
「何よ?」
「なあ。もしかして捨てる前提で着た?」
「そうよ?」
「……。また着たくなったら?」
「また作るでしょう?」
「……わかった、行こう」
 呆れたブレロは、使用人たちの判断にすべてを委ねて屋敷を出て、マドカを寮の近くへ送り届けて別れた。