医術師マドカと白いモモ

 いつもひと気の少ない冒険者ギルドの裏庭で、助けてとマドカに懇願された時、ワイヨールは「もちろんいいよ」とすぐ頷いた。マドカの瞳の中に切羽詰まったものを見た。だから返事は決まっていた。
 予兆があった。ホロウクイーンとの死闘を演じてから、マドカはどことなく臆病になってしまった。彼女のまろい声が二人の前衛をうまく呼び戻せなくなったまま、銀の稲穂団は銀嵐ノ霊峰に挑んでいる。
 メディックであるのに仲間の命を守るに充分な力を持てないでいるのが、マドカにとって一番の苦痛なのがわかった。不思議な『方陣』を用いたウーファンの治癒術が銀の稲穂団を魔法のように救ったのを思い出せば、失望は理解に難くなかった。
 迷宮におけるメディックという仕事への脅威存在が現れた――とは、ワイヨールの言い過ぎではないはずだ。実際ウロビトの方陣は、小傷程度は最初からなかったかのように治したし、さらには、地脈なるものを操っては、毒や熱に抗う技さえ持っているらしい。ちょうど、金剛獣ノ岩窟に生えた高温の鱗状の鉄塊に四苦八苦しているところへ、そんな噂を聞かされてはたまらなかったろう。あの鉄片は岩窟の至るところに突き立っては道を妨げ、また凄まじい熱を発して侵入者の体力を奪う。
 もちろん、誰かが悪意でもってマドカの耳に入れたわけではない。少し気晴らしで『踊る孔雀亭』でよい食卓を囲んでいるとき、どこかの冒険者が騒いでいるのを聞いてしまっただけなのだ。マドカの柔らかそうな丸い頬が、みるみる強ばっていったのを、ワイヨールは見ていた。未知なるものへの動揺と恐怖を、印術師ワイヨールはわかっているつもりだ。だから迷えるマドカに手を貸すことに、何のためらいもない。
「考えはあるのかい」
 沈んだ面持ちには何か言葉が必要だった。気遣わしく尋ねてみるが、マドカは暗い表情のまま首を振る。
「実は、こっそりいろいろやってみたんだけど……例えば、あの方陣っていうものの勉強をしたほうがいいのかしら、って文献を取り寄せたり」
 医学生マドカにとってはいささか無理のある話だ。医学の勉強で方陣どころではないはずだった。ワイヨールが難色を示すと、マドカは靴のつま先から目を動かさないまま、もう一つを打ち明ける。
「だから、私の代わりになってくれそうなウロビトがいないか『孔雀亭』で探してみたり」
「そんな……それじゃ、」
 銀の稲穂団を辞めるということと同義ではないか。ワイヨールが言葉を失うのとほとんど同時に、マドカの鳶色の両目が伏せられて、
「でもやっぱりだめだったの……後ろめたくて、声もかけられなかった」
「……マドカ」
 せめて名を呼ぶと、堪らなくなったマドカは顔を両手で覆った。ワイヨールは啜り泣くマドカが再び話し出せるようになるまで、静かに待っていた。
 マドカは程なくして落ち着きを取り戻し、目尻をこすり顔を上げた。真っ赤になった頬を押さえ、「ごめんなさい」と言った。
「……続きがあるの。聞いてくれる?」
「ああ、もちろん」
 ところがその内容が、ワイヨールにはとんでもなかった。呆気に取られてものも言えないでいたら、「やっぱり無理?」と上目遣いで困った顔をするマドカである。
「きみ、したたかだな」
「無理なら諦めるわ。ブレロに素直に言うのが一番いいって、本当はわかってるもの……」
「いや、そういう手で行くならやってみるけれど。磁軸さえ使えばさほどの距離でもないし。頑張れる範囲だと思うよ?」
 マドカの提案はこうだ。
 銀の稲穂団が冒険に出ない日、マドカとワイヨールはこっそりと深霧ノ幽谷に出発する。悪目立ちする気球艇は当然使わずに、磁軸を使って人間だけが移動するのだ。そうして深霧ノ幽谷から先は、なるべく安全にウロビトの里へ辿り着きたい。となるとルーンマスター・ワイヨールに、道中の供を頼む以外は他になかった。
 ワイヨールは自分の職分を適切に理解してくれているのをよろしく思う反面、すっかり呆れてしまった。
 だが、話はまだ終わりではない。
「それで、これ。『獣避けの鈴』」
「ああ。結構前に、クエストの報酬で貰ったね? ブレロが宿の倉庫に置いとくって」
「いいえ、私物よ。ちなみにもう一つあるわ」
 と本当にもう一つ出てくるので、ワイヨールは声が裏返った。
「……ちょっと!? これ、ベルンド工房で買えないものじゃないか? どこで見つけたの? かなり高価なものじゃない」
 呪具の一種である『獣避けの鈴』はワイヨールも印術師として覚えがある。その鈴の素材入手もどれだけ困難か、どんな複雑な印を刻むか、とにかく一手間も二手間もかかる呪具だ。作り手としては馴染みがあれど冒険者としてはまず縁がない貴重品を、一体どこからどうやって……するとマドカはちょっと目を逸らし、花色の唇を尖らせる。
「ちゃんと、買ったのよ」
「悪いけど偽物じゃないの? 高いんだよ?」
「……黙っていたけど、私の家って結構お金持ちなの。だからお父さまにお願いして……それから、これも」
 彼女が再びカバンを探ると、麻紐でくくられた札束が出てきて、わっと飛び上がりかかったワイヨールだが、よくよく見るとそれは札束ではなかった。書かれているのが額面ではない。なんとルーン・ガルドゥルではないか。ワイヨールは息を呑んだ。
「これは、」
「起動符っていうんですって。ここに書いてある呪文を読むと、誰にでも印術が使えるそうよ。どういう理屈かわからないけど、目の前で実演してもらったから本物よ」
「い……言われるまでもなく、よ〜く知ってるよっ! おれがそれ作ってたんだからっ!」
「あら。あらら? そうなの?」
 思わずワイヨールは目を閉じた。マドカがどれほど起動符について質問攻めにしてきても、必要にして充分以上の解答がとめどなく出てきて彼女を黙らせるだろう。ついでに言うとその起動符は、タルシスで最も信頼のおける老舗による高級品だ! 符の片隅に記された独特の花押を見れば明らかだった。
「あのさ……これ、いいお値段がしましたよねぇ?」
「なのかしらね?」
 マドカはまつげをしばたたき、本当にわからないと言いたげに首をひねった。こめかみあたりで一房つまんだ髪が、赤いリボンと一緒にふうわり揺れる。
 何ということを……ワイヨールは眉間を押さえた。額を気にせず束ほど符を買えるとなると、彼女は正真正銘本物の令嬢であるらしい。
「……ともかく、きみがどれ程思いつめてるかは確かにわかったよ。協力するよ。安心して」
 起動符で印術を実行できればワイヨールの消耗が少ないばかりか、マドカも武器を得たことになる。深霧ノ幽谷からウロビトの里までは、さぞかし派手な道のりとなるに違いない――ワイヨールは鈴と符の束を確かに受け取った。

 こういったことは、もたもたしないほうがいい。マドカとワイヨールが銀の稲穂団に黙って再び顔を合わせたのは、翌日の晩、マドカが寮から屋敷へ帰ることができる金曜日だった。恐らく彼女も同じことを考えて、相談を持ちかける日をいつにしたものか逆算したのだろう。
「――やあマドカ、お晩さま」
 日暮れをすぎた北のタルシス街門は、昼間の暑さが嘘のように涼しい。しっとりとした空気が風に乗って、マドカとワイヨールを迎えた。断崖そそり立つ大草原と大河と世界樹を臨む街門は、当然、人影もまばらで、風とともにうら寂しい雰囲気に包まれている。金曜の晩にわざわざ迷宮へ繰り出す者など、そういない。
「ごきげんよう、ワイヨール。どきどきするわね。日が暮れてからの迷宮なんて、滅多にないものね」
「それも後衛二人でね。こんな日が来るとは夢にも思わなかったよ」
「……そうね」
 固い顔でマドカが微笑むので、ワイヨールは少し慌てた。悪く言いたいわけではなかったからだ。すると、わかってるわ、とマドカは頷く。
 いくら獣避けの鈴を下げた挙げ句、印術が使い放題とは言っても、ルーンマスターとメディックが二人で深霧ノ幽谷に赴くとなると、緊張も無理はなかった。何よりもいつも、果敢に魔物の爪や牙や魔術を受け止めてくれるブレロやギノロットが、いない。
 ワイヨールが昼間に冒険者ギルドで様子をうかがうと、とある酒場連が盛夏の広場に特別な席を設けるとかで、彼らは遊びに行くらしい。迷宮の外にいる彼らは、冒険のことなどすっかり忘れている。無論ワイヨールも誘われたが、今ごろ前衛二人の中の架空のワイヨールは、印術師仲間と連れ立って、架空の研究活動にいそしんでいるはずである。
 タルシスでも無謀で知られる冒険者でさえ、この時間に好んで出発することはあまり多くなかった。夜は夜行性の魔物の闊歩する時間だ。夜闇の中で命を絶たれる駆け出し冒険者の話は、枚挙に暇がない。
 まかり間違えば自分たちもそうなるのは、もちろん理解している。暗くなりつつある時刻に、よんどころないとはいえ無謀と言われても仕方がない。しかし、あまりにも居たたまれない、やむを得ず他に何もできぬマドカに、ワイヨールは付き合うと決めたから、だから今、ルーンマスターのローブが夜風に吹かれている。マドカの術衣も冷たい風にゆらゆらと翻った。
「さあ、行こうか。気の鈍らぬうちに」
 夜に見るには鮮やかすぎる磁軸の赤い光柱へ進み出て、体がすっかり覆われると、もはや儀式のような感覚に襲われて、二人は眉を歪ませる。回るような目眩を境に、日常と非日常は完全に切り替わる。
 磁軸やアリアドネの糸を使う時はいつも目眩のような感覚に襲われた。樹海と街を繋ぐこの光が、一体何の目的で誰が拵えたのか、まだ誰も知らない。辺境都市タルシスを三つの巨大迷宮に導く、赤紫の磁軸には人為が見え隠れするが、その明らかとなる日はまだ遠いだろう。
 目眩が鎮まったころに目蓋を開くと、そこは確かに第二の大地、炭紅ノ石林にある深霧ノ幽谷の一角だった。
 周囲の景色が磁軸の光で赤く照らされている。霧は光を散乱させ、いかにも人工的な赤紫の影が投げかけられていた。そのけばけばしさは、ふとした拍子にここが森だということを忘れそうになる。しかし霧の向こう、磁軸の光も及ばぬ森の奥は、不気味な闇が道を閉ざしていた。
 夜の深霧ノ幽谷はなお霧を深く濃くし、そして不気味なしじまの中にあった。昼であれば鳥のさえずりが聞こえるものを、今は蛙のだみ声とどこか金属質な虫の音と、篭もるような夜鳥の鳴き声が、梢の葉ずれを背景に響いてくる。
 ワイヨールはマドカを見た。口を引き結んで硬い顔のままでいるが、彼女も迷宮を征く者の一人だ。腰に獣避けの鈴を括りつけ、起動符とランプをしっかりと携え、
「……行きましょう」
 暗い霧の道を越えるために、マドカとワイヨールは一歩を踏み出した。魔物避けの鈴で避けきれぬ魔物たちには、計画通り束になった起動符を引き抜いては唱えた。草むらから現れる森ウサギを氷槍で貫き、樹上から飛びかかってきたオオヤマネコを雷撃で打ち、夜陰に乗じて現れるブラックネイルには火球を叩きつけて追い払い、うっかり見つけた危険な花びらは見て見ぬ振りしてやり過ごす。ワイヨールの緻密な元素の操作が、マドカの起動符の威力をも最大化させていき、道中はあっけないほどたやすかった。
「あなたって本当にすごいのね」
 感心したようにマドカが言う。
「魔物に囲まれて、いつもこんなことしていたなんて。冷静だわ」
「というかまあ、これが私の仕事だしね。駆け出しだったころならまだしも」
「私にもこんな特技があったらよかったのに……」
 分厚い起動符の塊に目を落とすマドカを、ワイヨールは静かに諭す。
「そう言うなよ。血なまぐさいのは男とハンターの仕事だよ。きみが専門の医術師でいるから、私たちは本気で戦えてるんだしね。――こんなことギノになんか任せておけるもんか。だって私は目の前で見てたんだから、あいつの手つきが雑なのを!」
 マドカの苦笑を誘ってから、やがてウロビトの里に辿り着くと、方陣師の長ウーファンは夜の訪いに慌てもせず、準備万端の様子で二人の人間を屋敷に迎え入れた。奥でとろとろ燃える暖炉に鉄瓶をかけた、一組の卓のある清貧な部屋へ通されて、そこで彼らは巫女シウアンの姿を見つけた。シウアンはぱっと顔を輝かせたが、すぐに眉を曇らせる。
「二人とも! こんな夜に大丈夫? 怪我はない?」
「ごきげんよう、シウアン。ええ、大丈夫。何ひとつ抜かりなしよ。急に押しかけたのに、ご心配ありがとう」
 マドカもワイヨールもかすり傷さえない。シウアンの視線が二人の頭からつま先を何度も往復するので、マドカは自分の無傷を両腕広げて証明した。マドカの赤いリボンがひらりとして、ようやく胸を撫で下ろしたシウアンは、いつもの笑顔を見せてくれた。
 ウーファンによって体を温める湯薬が二人に供された。夜霧で冷えかかった二人の人間は、素朴な土色のままの茶碗をふうふう吹きながら、薬草の匂いが漂う湯薬を少しずつ口にした。
 湯薬で自らも唇を湿したウーファンは、以前と変わらぬ静かな声で切り出す。
「貴様たちが来るということは、既に知っていた」
「……え?」
 目を丸くする二人に、シウアンも頷いた。巫女が望むことを実現するのが、彼らウロビトという種族だ。シウアンがときに世界樹の声を聞くように、ウロビトのある種の者は、巫女の予感を感知する。
「わたしのお世話をしてくれる子が、教えてくれたの。あなたたちが困ってる、近いうちにやって来るって」
 里にあっては巫女を不自由させぬよう発揮されるウロビトの才が、銀の稲穂団の来訪を告げたという。
「だから、みんなのことを待ってたんだ。けれどこんな夜中だと思わなくて……どうしたの? わたしたちが力になれるなら、何でも言って」
 少しの沈黙が落ちた。
 マドカは湯を含み、ワイヨールは彼女の横顔を気遣わしげに見つめている。二人の腰掛けた長椅子の、マドカの側がキシリと耳障りな音を立てた。
「大丈夫。わたしとウーファンに教えて」
 マドカの鳶色の瞳が遠慮がちにシウアンを見、シウアンは微笑んだ。
「……聞いてちょうだい。私たち、新しい仲間を探して来たの。メディックの、私の代わりになってくれる人を……」
 言葉は進むほど萎れていったが、ウーファンは静かに首を振る。それ以上は言わなくてよいという目つきで。
「待つがいい」
 と立ち上がって姿を消し、そしてすぐに一人の少女を伴って戻ってきた。淡い桃色の衣服を身にまとった、白樺色の髪と白茶けたような肌の、枝切れのような少女だった――少女はウーファンの隣に音もなく座る。
「この子は?」
 ワイヨールの尋ねにウーファンが促し、少女は頷き、
「モモ」
 と一言、口にした。ほんの幼い子供の声音である。それが名であることを察したのは、マドカもワイヨールも一拍置いて後だった。
 モモと名乗るウロビトは、確かに目線は交わっているのに、どこか遠くを見ているような、まさしく虚ろを覗いたような、空と同じようなぼんやり青い瞳をして、これ以上何を口にする気配もなかった。無口と呼ぶには余る雰囲気に、二人の人間は戸惑った。まるで人形を相手にしているかのように、少女の顔からはこれといった感情を拾えないのだ。
「……無理はない。この娘は魂が限りなく薄いのだ、巫女に感応するために。我らの中には、生まれついてそう望む者がいる」
 モモはやはり顔色を変えず、ウーファンが代わりのように語る。
「魂を限りなく薄くした者は巫女の意思を――心を聞き届ける。このモモはそうしたウロビトの方陣師。私の弟子でもある」
「魂を、薄く……」
「しかしモモは巫女の望みを成すために、貴様たちと共に旅することを望んだ」
「みんなは私の初めての人間の友達だから、力を貸してあげたくて。モモならきっと頑張れると思うんだ」
 シウアンも言う。しかし、ワイヨールがどこか冷たい色の目で値踏みするようにモモを見た――モモは微動だにせず、一切顔色を変えないで、黙って無遠慮なままにされている。それでワイヨールはむしろ直截に口を開いた。
「私たちは遠足でもなければ見学に行くのでもないよ。迷宮がどれほど危険なのか、ウーファンだってよく知ってるだろう?」
「……ワイヨール、言葉が過ぎるわよ」
「でもねマドカ。この子はいくつだい? 何語話した? 当然の疑問じゃないのかい。きみはこの子に、今すぐ命を預けられるかい」
 と痛罵を浴びせた、そのとき、
「ごめんなさい」
 佇むだけに思われたモモが、ようやく自ら口を開いた。ワイヨールもマドカもはっと注目する。
「モモ、まだうすい。まだなの。ごめん、ワイヨル」
「――おや」
 舌足らずな口調で名を呼ばれ、ワイヨールは目を丸くする。案外愛らしい声に毒気が抜かれた上、「ほらご覧なさい」とマドカが脇腹を突っつくので、彼は芝居がかって身をよじらせた。
「ごめんなさいねモモちゃん、ワイヨルもびっくりしたみたい。ひどいことを言って、許してちょうだい。見た目ならあなたと似てるのにねえ」
「んーん。いい」
「人が地味に気にしてることを……」
「お黙りなさい、無礼も程々にすることね。――ねえ、どういうことかわかってきたわよ。この子にも時間が必要なのね。そうでしょう?」
「モモは生来柔軟だが、薄弱ではない。方陣の才も私が長として保証しよう。私がゆくと言いたくはあるが、代わってこのモモを連れてはくれないか」
 誰もみな、今日や明日から突然に慣れた冒険者になるものではない――だが、その前に、と彼女は口を開く。
「ひとつだけ、教えてくれるかしら」
 マドカは向き直り、再びモモと目を合わせた。まだどこか異世界にいるようなモモを、しっかりと見つめる。
「どうして私たちの仲間になってくれるの? シウアンが望むから?」
「モモ、巫女を、しあわせにしたい」
 ふと一瞬視線が強く交わって、マドカはその中に確かなる意思の存在を感じた。固く強張った頬に、微笑の色が差したように見えたのはマドカの見間違いだろうか。
「……シウアンが言うから、ではないの?」
「んーん。にんげんとウロビト、いっしょになれたら、巫女しあわせ。巫女がしあわせだと、モモうれしい」
 幸せにしたい。
 小さな子供が口にするには不釣り合いなその言葉に、マドカは確かに色をみた。シウアンの未来を望む明々たる熱を見つけた。生まれ持った宿命の衝動とも違う、神聖な何かがモモという子供の中にある。
 胸打たれマドカがそっと手を伸ばすと、枯れ枝めいた肉のない指が絡まった。色褪せた樹皮色の幼い手は、しかしマドカと同じく確かに温かい。
「わかったわ――よろしくね、モモちゃん。厳しく、たっくさん、教えるわ。どうかついてきてね。ワイヨールに馬鹿になんかされて、たまるもんですか。見返してやりましょう」
 モモが重たそうな頭でこっくりと頷く。子供らしい小さな唇は、今度こそ微笑みの形を浮かべた。

 明くる日の朝である。
 ブレロがすっかり身支度を整え、今日は何して遊ぼうかな、またギノロットに変な言葉の綴り方を教えようかな、などと考えながらベッドのリネンを交換していたころに、セフリムの宿へマドカが訪れたのだった。見たことのないウロビトの少女を連れていた。
「へええ。宿の大部屋ってこんなところなの。結構広いのねえ。そっちは、ギノちゃん?」
 とっくに朝を迎えているのに、まだ毛布と枕に埋もれているだらしない男を指した。その通り、派手な寝癖の茶色い頭はいかにも、ソードマンのギノロットである。寝起きの悪い彼はいつも大部屋で一番最後まで残っていて、今も何か聞き取れない寝言をぐにゃぐにゃ呟いている。気になったのかウロビトの少女は、マドカの影からひょこひょこ耳を動かした。こんなにひどい毛布の塊はそう見当たらないだろう、奇妙に思うのも仕方がない。
「起こすか?」
 若干いたずらめいた気になってそんなふうに言ってみたが、マドカはいいえと首を振る。
「私、あなたに話がしたくて来たの。ちょっといいかしら」
 何かを感じ取ってブレロは胸がぞくりとした。どこか固い顔をしたマドカの様子が、ただ事ではないと告げている。
 食後のコーヒーにはずいぶん遅すぎる時間に、三人は宿を出た。ウロビトの子供の口に合うようなものを出せる店がどこにあるか、ブレロは必死になって頭の中の住所録を繰る。例のパステルピンクのカフェ? いいや、それにしては空気が重たい。あの不思議時空カフェで過ごす気にはなれない。
 マドカは遠くを見たまま何も言わないでいる。見るからに無口そうなウロビトを間に挟んで、三人組は通りを無目的なまま進んでいく。
 意外なことに、口火を切ったのは少女だった。
「ねー、あのね。モモはね、モモってゆーの。ブレロ?」
 舌っ足らずな言葉遣いで、それでも精一杯頭上のブレロを見上げてそう言った。名を尋ねられているのだと気がついたのは、青い瞳と目を合わせて五歩くらい歩いた後だった。ブレロはハッとなってがくがく頷く。
「そうだよ。俺がブレロ。君は、マドカの友達?」
 マドカと仲よさそうに繋いだ手を見て話を継ごうとしたら、変な答えが返ってきた。
「うんと、でし」
「で。……でし?」
「そー。でし」
 どこか間延びしたような声とともに、かすかに少女――モモが笑った気がした。見間違いかと思うような笑顔だった。変な夢でも見ている気になって、思わず目をしばたたくブレロである。
「でしって何だい?」
「マドカおしえてくれるの。モモでし」
「ふ……ふーん。なるほどな!」
 もちろん何がなるほどしているのかは語るべくもなく、ブレロは内心おろおろした。この子は思った以上に話が通じない。これほど通じない相手を隣に立たせたことが一度としてなかったブレロに、モモという少女はあまりに手強かった。救いを求めてマドカを見るが、マドカはモモと繋いだ手をぷらぷら振っているだけで、相変わらずどこか遠くを眺めている。
 ブレロは仕方なしに、モモに立ち向かう決心を固めた。
「一体何を教わるんだ? リボンの結び方?」
「いじゅつ」
「……いじゅつ」
「んとねー、けがと、びょーきのなおしかた」
「いや、それはわかる。そうか……君もお医者さんになりたいのか」
 そういう意味の弟子かと、ブレロはやっと得心がいった。が、その後の展開は何もかも取り返しのつかない、堤の決壊でも見守るような気分だった。
「うんとね。あのねー、しゅるいがね。きいたの。せっそーとかれっそーとか、ブレロとギノちんがいっぱいけがするってきいたの」
「……え? 何て?」
「深霧ノ幽谷でね、ばくだんカズラでねー、バーンってばくはつして、いっぱいばくしょーできたんでしょ? だから、モモ、封縛するから、みんなにやっつけてもらう。そんで、もしけがしたら、モモなおすの」
 さすがのブレロも、くりくりとした碧眼の彼女が何を話そうとしているのか察した。こんな小さな子供が、迷宮の冒険を喋ろうとしている――!
 この少女はひょっとすると、ウーファンのような方陣師だ。これはただの間保たせのお喋りなんかではない。ブレロはやっと理解した。
「おいマドカ、そろそろ何か言ってくれ」
 聞いているのかいないのか、マドカは歩いているうちに現れた公園にモモを引いて行ってしまう。ついていくしかないブレロは遅れぬように、歩幅の狭い二人に精々気を遣って、マドカの行くに任せた。
 木陰のベンチを見つけて、三人は腰掛ける。
 一人と一人が、マドカの口が開かれるのをじっと待った。街路樹が風に吹かれてさわさわと鳴り、行き交う人々が各々の話に興じながら通りすぎてゆく。
 世間が静かだった。胸騒ぎをごまかしきれないほど普通だった。
「私、銀の稲穂団を辞めるの。だってもう……私はもう……冒険者でよかったって、思えなくて」
 ブレロは最悪に嫌な声を聞いた。
「――わかった、もういい」
「いつか取り返しのつかないことになるわ! そのときあなたたちが、もしも」
「もういいマドカ! やめてくれ」
 人一倍上背のある体を精一杯大きく見せてブレロが立ち上がると、マドカの頭上は影が落ちて日差しをさえぎり、彼女の喉を引き攣らせた。
 そのときだった。
「マドカをいじめないで!」
 決然とした青い大きな瞳が、ブレロを見据えた。ブレロがついたじろいだのは、小さなモモにも明らかに伝わった。モモの強張った顔がふと和らいで、元の子供らしいあどけなさに戻る。
「すわって、おはなし」
 細ら長い手指がベンチをペチペチ叩くので、ブレロはおとなしくそれに従った。幼い子供に諭される自分が情けなく、ブレロは声を絞り出す。
「……すまない。驚いてる」
 マドカの顔を見られないでいるブレロには、到底無理な話だった。そもそも今日のマドカがどんな格好をしているのだか、何色のリボンなのだか、さっぱり入ってこないのだ――目を凝らしても、マドカの顔を見られない。
「それで、ウーファンが教えてくれた方陣使いが、モモちゃん。この子なの。これから私の医術の知識を目一杯教えるつもり」
「……」
「小さいけど、すごい子なの。見せてもらったの、私たち。深霧ノ幽谷の魔物だってすぐに封縛して。それで――」
 それでいつの間にだかマドカはワイヨールにだけ相談して、後衛が二人だけで夜に出かけて、ウロビトの里を訪ねて、勝手に次のメディックを選んだというのを、ブレロは黙って聞いていた。責任感の強いマドカは、モモが使い物になるまではギルドにいると約束したが、それらをまともな顔で聞いていられたかはわからない。そもそもマドカが押しかけるように現れたのを、今更ながらに苛々していた。自分が頼りにならないフォートレスだと言われているようで、腹立たしかった。
 だがしかし、もう無理だと言うメディックを無理に迷宮には連れて行けない。
 ブレロはミスティック・モモの価値もわからぬまま、メディック・マドカを失った。宿にも冒険者ギルドにも足を向けられないまま、ブレロは彼女らと別れた。

 昼過ぎのことだ。目が覚めたらブレロが隣にいなかったギノロットは、いつもの通り遅れて冒険者ギルドに訪れ、貸し出された会議室一覧の中に、銀の稲穂団の名前を探した。ロビーの黒板に記された一室は、三階の三号室だった。三の三。覚えやすくていいや、とギノロットは歩き出した。
 いくら字が読めないとはいっても、『銀の稲穂団』という一綴りはすぐに覚えた。これだけは読めなければ、ギルドの仲間が集っているのか分からない。あとはブレロがろくでもない綴りばかり教えてくるから、もう、何とはなしにまともな何かを読みたかった。下世話な言葉や品のない単語ばかり、暇を見つければ楽しく教えてくる。ギノロットはいい加減うんざりしていた。そんなのはもう御免である。
 こうなったら嘘でもまともに読めるようにならないと、ブレロはいくらでも馬鹿のような綴りを教えてくるに違いなかった。が、とはいっても、一体何を読めばいいのか分からない。ギノロットは文字で書かれた何ものにも興味がなければ、これといった必要性さえ感じていなかった。
 悩みながら会議室へ辿り着き、一つ二つドアを叩いてから開け放つと、部屋の真ん中にある会議卓に、ウロビトが一人ぽつんと座っていた。
「……んあ。ごめん」
 部屋を間違ったのかと思って、ギノロットの口は咄嗟に謝った。だが自分の掴んだドアノブを押し戻して、表札に目を走らせても、そこには『三〇三』と書いてある。いくら何でも、数字は読める。
「ぎんのいなほだんのおへやだよ」
 ウロビトの顔と表札を交互に見ていたら、いくつくらいなのだろうか。人間の感覚を当てはめていいなら十にも満たないように見える。とにかく子供っぽい丸い声で、ウロビトは喋った。青いつぶらな瞳をぱちぱちさせているのが、何とはなしに愛らしい。
「だよな? ここ、『銀の稲穂団』だよな」
「うん、そうだよ」
「だよな……」
 戸口に立ったまま、ギノロットは狐につままれたような気になっていた。少女はいつもマドカが読んでいるような、ギノロットがちらとも見る気になれない、文字で真っ黒になった本を広げている。
「まさか……迷子か?」
「んーん。ちがうよ」
 ウロビトは向かいの席に手を伸ばして、ぺしぺし叩く。座れと言われてついつい素直に従うギノロットは、いつもの位置に腰かけた。ウロビトの斜向かいである。
「モモのなまえはねー、モモってゆーの。ぎんのいなほだんにいれてもらったんだー」
「ハァ?」
「モモねー、めでぃっくなるの。方術といじゅつの方陣師になるんだよ。ギノちんけがしても、モモなおすの」
「……ハァ」
「かすりきずなら、方陣でなおるよ。いっぱいきずは、めでぃっくと破陣するの。ギノちん、けがしないでね。いたいからね」
 ところが怪我をするなの台詞に、ギノロットはやや過敏に反応した。どうやらこのモモという子供が本当のことを話しているなら、本当にメディックになるらしい。何が起きたか知らないが、うんざりしたギノロットは子供相手に、やや大袈裟に溜め息をついてみせた。
「あんなー。お前らすぐそーゆーけどな。俺だってしたくて怪我してんじゃねーんだぞ。お前らのことかばって前にいんだかんな。あんまヤイヤイ言われたら、やる気なくすじゃねーか」
「あっ……そっか。かばってくれてるんだ。ごめんなさい」
 と、モモは傍から見ても明らかなほど、しゅんと耳を垂れた。羊のようなロバのような、獣そっくりの不思議な耳だ。ギノロットはうっかりと笑った。
「分かったら別にいーよ。俺も、気をつける」
「うん! きよつけてね。けがしたら、モモかなしい」
「そーだな。悲しーな……分かった」
 モモは、読んでいた本をぱたりと閉じてニコニコと笑う。
 心を開いてくれたらしいウロビトの少女は言葉がうまくはなかったが、いろいろのことを話してくれた。ウロビトの里の暮らしのこと。両親のこと。師匠ウーファンやシウアンのこと。マドカとワイヨールに出会ってすぐに、ワイヨールに叱られたこと――。
「叱られたぁ?」
 とそこで、ギノロットは語尾が上がった。あの印術師ときたら、ときに臆面もなく毒づくのがいけない。
「ちがうの。あのね。……モモ、ちゃんとしゃべんなかったから、ワイヨルおっかなくさせたの。まじめに、やんなさいって」
 もう一度耳を垂らしてうつむくモモに、言葉が馴染まぬ同士として、ギノロットはどうしても弁護したくなった。可哀想に思って腕を伸ばして頭を軽くなでてやり、
「しゃーねーじゃねーか、お前は悪くねーよ。うまくしゃべれなくて黙ってたんだろ。俺もそんなんあるし、ワイヨールはなんか妙なとこあるし……お前の気持ち、ちっと分かる」
「ほんと!?」
「うん。そのうちうまく言えるよーになんだろ。お前、賢そーだし」
 分厚い本を指差してギノロットが言うと、モモは分かりやすく嬉しそうな顔をして、機嫌よくニコニコ笑った。
「そーだよ! モモ、かしこだよ。えへん……ギノちん、ありがとー。モモ、たくさんおべんきょうするね」
「おー。ぼちぼちやんな」
「……ぼちぼち?」
「頑張りすぎんなってこと。ちょこっとずつな」
「わかった! モモ、ぼちぼちする! おべんきょうよむね」
 モモはぴょこりと頷いて、再び本に目を通し始める。墨で真っ黒にしか見えない、小さな小さな文字の本である。唯一片隅にある内臓を描いた絵図が、ギノロットに医術書の類だというのを語っていた。マドカからの借り物だろう。
 さて、ギノロットは内心、焦った。この子供に遅れを取るのはよくない。俺は子供の絵本だって読まない。せめてその医術書を発音くらいはできるようにならないと、何かとてつもなく恥ずかしいのではないだろうか――。
 ギノロットは立ち上がった。
「モモ悪ィ、俺ちょっと出かけてくるわ」
「どこいくのー?」
「えっと……ちっと近くにある古い道具とか置いてるとこ。ブレロか誰か知ってると思う。言っといて」
「はーい。いってらっしゃい」
「おー。留守番よろしくな」
「おー」
 真似るモモへの返事もそこそこ、ギノロットは慌てて三〇三会議室を立ち去った。その少女が本当にメディックになるのが早いか、俺が字を読めるようになるのが早いか――自信のなさは、ギノロットを自然と駆け足にさせる。

 やがて銀の稲穂団は本当にこの八歳の娘をメディックに迎えるのだが、それは彼女がもう少し迷宮向きの技能を身につけてからのことで、ギノロットが何とか幼児向けの絵本を読めるようになってからのことである。