レリッシュと街のノラネコ

 レリッシュにはアパートがある。もちろん、所有しているわけではない。大家に借りている一人用のアパートで、とても小さな部屋が二部屋しかない。しかもドアで隔たっていないから、実質一部屋みたいなものだ。
 でも家具が一緒についているので、生活はすぐに始められた。共同住宅の最上階の四階で、一番眺めがよくて、晴れた日に見える世界樹の頭は何とも清々しい。が、一番昇り降りが大変だし、一番水場も手洗も遠い。良く言えば手頃な、悪く言えば不便な部屋なのである。
 本当はもっと早くに借りたかったけれども、猟師ギルドに所属して間もないレリッシュは、タルシスに現れたばかりの流れ者にすぎず、借りる力がなかった。銀の稲穂団でたくさんの現金を得て、ようやく借り受けることができたのだ。レリッシュは宿の安い大部屋はなかなか馴染めなかったし、かといって個室を借りても、薄い扉の向こうでは頻繁に誰かが行き交う。次第次第に損な気が強くなっていったので、どんなに不便だろうが念願のアパートだった。
 周囲の人々はみなレリッシュよりも年上だ。十六歳で部屋を借りる人間もあまりいないそうで、例えば若い画家とか、書生とか、やもめ人とか、そんな人々が暮らしている。なるほどお金持ちそうでもなければ、広い部屋が必要にも見えない。小さな部屋で生活が足りる。
 けれどもみんな、小さな部屋だけでは足りないものがあるようなのだ……このあたりはアパートメントが多いけれど、タルシスの人々はどんなに住まいが狭くなっても、生活のゆとりだけは忘れてはならないものらしい。
 実はアパートメントの裏には、覗いてみるまでわからないが、ぐるりを囲まれたシロツメクサの庭があった。タワシみたいな形の花の咲く木――レリッシュの知らない木。北国に生まれ育ったレリッシュの目には、いかにも暖かいところにしか住めない姿をしている――があって、周囲にも花の咲く草が植えてあった。それは植木鉢やプランター、さらにはベンチや樽で、高さに変化をつけながら育てられていて、まるで小さなかわいい公園だ。
 てっきり大家が面倒を見ているのかと思っていたら、老いた大家はネコを抱きながら「違うのよ」と苦笑した。シロツメクサの種を播き、四方のアパートメントが完成した折に木を植えて以来、三十年も何もしていないと言った。つまり、いつの間にか誰かしらが始めたことで、ベンチも樽も植木鉢も、わからぬうちに増えたらしい。
 それにしては調和の保たれた、雑多な感じのしない、整ったよさのある箱庭だった。この箱庭を守る誰かは、きっとここをこよなく愛しているのだろう。誰かが始めたみんなのかわいい公園は、住人たちの憩いの場で、ついつい足を止めてしまう癒やしの場だった。
 しかもそこは、素敵なことに、ただの箱庭にはとどまらなかった。だってこの箱庭は……ヒトのみならず、ネコもたくさん来る場所だから!
 レリッシュはネコを知らない。時々洗濯物に近寄られた母が、金切り声で追い払っていたのを思い出すだけだった。レリッシュよりもずっと背の高い塀の上に立ってじっと様子をうかがい、跳ねるやいなや小鳥に爪を掛ける、一瞬の狩猟現場を目撃もした。
 だが見たことがあるだけの生き物だし、レリッシュの狩りの対象でもなかった。人間と違う生まれついてのハンターだから、足音を立てないしなやかな身のこなしを羨ましく感じたことはある。
 それに、ネコという生き物は変わっている。人間と一緒にいるくせに、ちっとも話を聞いてくれない。
 ある日、何の猟果も得られなくって、しょんぼりしょげて帰ってきて、とにかく話さずにはいられなくて、たまたま日向でくつろぐ彼らに愚痴をこぼしたら、五分も経たない間に逃げられてしまった。
 かと思えば、とても満足いく猟ができて懐もほかほか、市場の肉屋の賄いをごちそうになったうえ、現物でちょっぴり分け前まで貰えて、干して冒険の携帯食にしようと肉を鞄に入れてあると、たちまち目を輝かせて擦り寄ってくるのだ。しっかり紙に包んだはずの肉の匂いをちゃんと嗅ぎつけて、それを食わせろとわめいたりする。現金な生き物だ。
 しまいにはレリッシュの出歩く時間帯によって、来たり来なかったり露骨になっていったので、なんて媚びた、卑怯な生き物なんだろうと呆れたが、しかしブーツに脇腹をこすりつけられたり、どこやらを撫でろとせがまれたり、リボンが風に吹かれて飛びつかれたり、餌をよこせといつまでもニャアニャアねだられたりして、ネコ語と人語のたぶん成立していない会話を経たりすると、不思議なことに、彼らは妙に愛くるしく見えてきて、なかなか邪険にできなくなるのだ。
 だから他の住人と同じように、レリッシュも彼らを好きだった。

 ネコは呼んでも寄ってこない。
 そういうことをまだ知らなかったレリッシュは、ある夕暮れ時、例によって構ってほしくて「おいで」と手を伸べたのだが、当然彼らは来たいときにしか来ない。だがそれをネコに教えられる前に、背後から澄んだ声に笑われた。
「あなた、ネコを飼ったことないんでしょう」
 背中に当たった鈴を振る声に振り向いてみると、フワフワに柔らかい細い銀色の髪を腰まで伸ばした、とても小柄な女の子が微笑んでいたのである。レリッシュはびっくりした。色白で、顔がちっちゃくて、目が宝石みたいに真っ青で、ほんのり赤いほっぺのぽちゃっとした、嘘みたいに愛らしい女の子だったのと、彼女が来た途端、身を潜めていたネコさえパッと躍り出たせいだった。
「ネコのお仕事には報酬がいるのよ。ほら」
 彼女は持っていた紙包みの中身を、レリッシュに半分わけてくれた。それは人間が食べないような、脂身ばかりの豚肉のかけらをカリカリに焼いたものだったが、ネコたちにはそれで充分なようで、人間の手からぱくぱく食べた。手に残った脂さえ舐め取ろうとするネコがいて、レリッシュは慌てて手を引っ込めて、地面のシロツメクサで脂を拭う。追い縋ろうとしたネコは、不満げにレリッシュを睨みつけた。
「あの……ネコのお仕事って何?」
「ここにいるだけで、かわいいことよ」
 彼女は笑って答えた――ネコがかわいいのは、お仕事! レリッシュは目を丸くした。イヌと違って、どんなに言うことを聞かなくたって、歩いて、座って、寝て覚めて、顔を洗って尻尾を揺らして、気に食わぬ誰かと取っ組み合いの喧嘩になっても、それで立派な仕事なんだ! そんなふうに考えたこともなかった。どうりでお近づきになれないわけだ。
「かわいいのが仕事だなんて。いいなあ……」
「ネコに許された特権ね」
 何とはなしに寂しい心持ちだったレリッシュは、膝を抱えたまましゅんとなった。もちろんネコなりに悩みはあっても、ただいるだけでかわいいのが仕事の域にまで達すると、人間なんかにはもう、理解の範疇を超えている。月や星を見るみたいだ。
 それで何匹かがフワフワの女の子の前に座ったり寛いだりし始めたので、レリッシュもネコに仕事をお願いした。とろけるような柔らかい毛並みを撫でさせてくれたそのネコは、茶色い虎縞模様の、長い尻尾がとても優雅で、しかも肉球は綿菓子みたいなピンク色で、ぴかぴか光ってつやつやだった! なんて立派な仕事人、いや仕事ニャン。見ているだけでうっとりする。こういうことなら次からは、きちんと報酬をあげなくては詐欺というものだ。
 銀髪のネコ通訳者は、ニョッタと名乗った。どうやら越してきたばかりのレリッシュが、ネコの相手が下手だと気づいていたらしい。四方を囲むアパートメントの一室の住人で、見習いの印術師なのだとか。レリッシュにとっては印術師といえばあの痩せぎすの男性ルーンマスター・ワイヨールだったので、こんなにふっくりしてかわいらしい女の子が印術師だなんて驚いた。そんなに背丈が変わらず、年も近そうなところがますます親近感を誘う。
 レリッシュがハンター兼冒険者である自分のことと、冒険仲間のルーンマスターのことを話すと、彼女は目を丸くした。
「私の印術は植物が相手なの。香油を採ったり、お薬にするようなのよ。だから戦ったりはしないの。迷宮に行くなんて勇敢なのね」
 印術師とルーンマスターは区別されているようだった。タルシスの街の中で必要とされる方は印術師。迷宮を進むのはルーンマスター。レリッシュにはどちらも印術の使い手だったけれど、いつかにワイヨールが見せてくれたように、街と迷宮とではやはり違うようだ。ニョッタが修行に出ているのは、街中の奥さんたちが頼りにするような、『伝統的な魔女』みたいな印術師らしい。
「そうしたらニョッタもいつか、そんな魔女さんになりたいの?」
 するとニョッタはまたくすくす笑う。その声が何だか、悪戯好きの妖精みたいで、レリッシュはどきどきした。
「ふふ、『魔女さん』? そうね。そのためにお師匠さんのところにいるから」
 母親がそんな印術師で、小さなころから慣れ親しんできて、タルシスには修行のために訪れたというから、ニョッタにとって当然の道行きなのかもしれない。考えたこともない世界の話に、レリッシュが「すごいなあ」と感心したら、ニョッタは不思議そうな顔をした。
「あなたも、そうなんじゃないの?」
「えっ、わたし?」
「だって私より年下の子が住みに来たの、初めてよ。だからきっとすごい弓の使い手なんだわって気になってたの。迷宮にまで行くんでしょ?」
「ああ……」
 好奇の色さえあるニョッタに対して、レリッシュは何とも言えない曖昧な声を出した。少し前までの自分なら『すごい使い手』であることに何の疑問も抱かず肯定していたけれど、今はもう難しい。弓の腕には多少の自信があっても、それだけでは何ともならない世界があることを知った。迷宮に出かけたら気位が最初に無駄になって、銀の稲穂団で最初に挫折したのが自分なのだった……だからレリッシュは、仕方なくそういう自分を明らかにした。恥ずかしくても、本当のことを隠しておけるほど、もう図々しくはなれなかった。
「でも、十六歳よね。独り立ちしてるなんて立派だわ」
 そこを言われると尚のこと弱い。だって独立したわけではなくて、家出してきたのだから……ぽそっと言うと、ニョッタはえっと予想通りの反応をしたが、言われた内容は予想外だった。
「なら親にも頼らずに一人で暮らしてるの? それってとっても大変なことよ。それで迷宮に行って、狩りのお仕事までして」
「そうなんだけど……」
 後ろ暗くて自慢できる話でも何でもないので、レリッシュは口ごもる。でもニョッタは興味深そうな顔をして、今夜の夕飯の予定について尋ねてきた。少し行ったところの市場に、美味しい煮売屋さんがあるのよ、と言って。
 レリッシュはその煮売屋を知らなかった。ニョッタはタルシス歴二年目、このあたりに来たのは半年前。風に乗ってきたいい匂いを頼りに、見つけ出したという。けれど一番ニョッタが気に入っている鴨肉とキノコのソテーは残念ながら出ておらず、レリッシュもニョッタもがっかりした。
 その代わりに、と煮売屋の旦那さんに勧められたのは、ウィンナーとジャガイモのマスタードソテーだ。二人は進められるままにソテーとバゲットと、少しの野菜を注文して席についた。しばらくして温かな湯気を上げた皿が三つ四つと現れたので、最初にウィンナーを口に入れた。
 するとなんとこれが、次の一口がどんどん進む。ウィンナーの旨味をマスタードがちょうどよく引き締め、ホクホクのジャガイモを頬張ると、今度はほんのりとした甘さが広がる。そしてマスタードの粒が奥歯でぷちぷち弾けて、恋しくなってまたウィンナーを食べてしまうといった具合だった。
 そんなつもりはなかったが、あまりにも美味しかったので薄めたワインを追加でお供にして平らげ、二人はすっかり満足してニコニコした。そうすると今度は、頼んでもいないのにスポンジケーキが一皿ずつ現れたではないか。戸惑うレリッシュが言いかけると、旦那さんが唇に指を当ててウインクした――信じられない! プレゼントだ! 少女たちは声を出さずに大喜びして、甘いケーキをむしゃむしゃ頬張った。美味しくって頬が落っこちそうだ。
 丁寧にお礼を言って支払いを済ませた二人は、意気投合して宵の市場をふらついた。レリッシュが猟師ギルドを通じて世話になっている精肉店や、ニョッタの育てたハーブを扱っている香草屋や薬店を、それぞれ指さしながら眺め回る。そのうち、一人で歩いて見ていたときには気づきもしなかった路地裏の古書店を知って、レリッシュは久し振りに本を手にとって何冊かを買った。
「何でも読むのね」
「話の内容は知らないの。表題が気になっただけ。ニョッタは知っている?」
「一番上にあるのは知ってる。内緒にしておこうか?」
「うん。読めたら感想話すね」
「途中で切なくて泣いちゃうかも」
「辛い話?」
 眉を曇らすレリッシュに、ニョッタは微笑みながら首を振る。
「ハッピーエンドよ、大丈夫」
「よかった」
 本当は、レリッシュには感情というものがよくわからなかった。思い通りにならなくて腹立たしい、とか想像通りに成功して嬉しい、とかいう気持ちはあったが、『切ない』となると自信がない。聞いたことはあるし言葉として持ってはいるのに、未だかつて『切ない』が必要になったことはない。
 この本の中に『切ない』が閉じ込めてあるのなら、レリッシュは、それを知ってみたかった。
 成功と失敗以外知らなかった。それ以外は知らない。自分の心が掻き乱されるのが嫌で読んでいた指南書は、心を鎮めよということは教えてくれた。けれど、ニョッタのように微笑んで友達を作る方法なんて書かれてはいなかったし、ましてや呼んでも来ない生き物のことなんて、教えてもくれなかった――。
 わたしは、人間らしくなりたい。冷たい人形のようでない、人間のかたちのわたしに。

 機嫌のいい二人がほろ酔いになって、路地裏から表通りへ引き返していたときだ。裏通りはくねくね曲がって、日の暮れてしまったこの時間はすっかり暗い。店や住宅の窓からいくらかの灯火が漏れているが、それだけだった。
 だが四つのときから神経を研ぎ澄ますよう仕込まれてきたレリッシュは、たとえ酒に酔っていようが、躾をたやすく忘れられはしない。レリッシュは新しくできたばかりの友達に、そっと声低く耳打ちする。
「屋根のあたりから音がします。軽い足音。本屋さんから、ずっと来ている」
 ニョッタは吃驚仰天した。このあたりは昼間そんな気配が毛頭ない小路だ。にわかに信じがたく耳を疑ったが、しかしあくまでも真剣な顔のレリッシュを、笑い飛ばすこともできなかった。どこか頼りなげだった少女の目が、途端に猛禽のごとく鋭さに変わっていたからだ。彼女が迷宮の冒険者だということが、ニョッタにも疑いなくはっきり感じられた瞬間だった。
「ね、ねえ。つけられてるってこと? どういうこと?」
「荷物を貸してください」
 手を出されたので何が何やらわからぬまま、ニョッタは抱えていた古本を手渡した。ニョッタの両手がぶらりと空いて、一方レリッシュは塞がってしまう。なのに彼女は落ち着き払って言葉を続ける。
「これで、ニョッタは少しは安全。このまま表まで行けたらいいけど……速くて無理かと」
 まさかと思いながらニョッタは、早鐘のような心臓を押さえてできる限り自然に耳を澄ました――すると確かに頭上から、カタコトと何かの音がする。まるでネズミの足音のような軽さだが、確実に二人の後をついて来る! なのに表の喧騒はまだ遠い。慌てふためくニョッタにレリッシュが答えた。
「きっとそこで追いつかれます。ニョッタは先に逃げて」
「そんな……そんな、レリッシュは!?」
「静かに。聞こえなくなっちゃう」
 一拍置いて、足音がやんだ。レリッシュの明るい茶の瞳が、まるで目に見えるかのように音を追う。背中を叩かれ合図されてニョッタは脱兎のごとく駆け出――、
「痛ァーッ!」
 駆け出そうとした途中で素っ頓狂な悲鳴を聞いてしまい、ニョッタは飛び上がって振り返る。するとそこには、宙を舞う何冊もの本と、宙を舞う見知らぬ人間の細身があった。
 ――人が飛んでる。あれは何? 夕方の妖精?
 何が何だかわからぬまま、ニョッタは呆然とそれを見つめていた。長い腕で妖精の襟首を捕まえて引き込むレリッシュの姿が、止め送りのように流れていくのを、一瞬、これは走馬灯なのかしら、などと思い違えた。
 ドタン、という重たい音がして、我に返ったニョッタが友達を見つめると、レリッシュは日暮れの妖精の腕をねじり上げて背乗りになっていたのであった。
「レリッシュ!」
「大人しくしないと怪我しますよ」
「痛たたた! 痛いって! もーわかったって! 離してぇ!」
 不埒者の首根っこをレリッシュがぐいとつかみ上げると、それは自分たちといくつも変わりのなさそうな女の子だった――が、いやに薄着で、痩せていて、派手なピンクに髪を染めた、なるほど裏路地の暗がりに隠れていそうな、明らかなる小悪党である。
「ってゆーかウチまだ何もしてないし! ちょっとヒドくない!?」
「付け狙うのが『何もしてない』なら、こうなってません」
「ウチが欲しかったのは財布、財布だから! 命狙ってないからぁ!」
「スリですね。許せません。わたしたち、とっても怖かったです」
「いや絶対ウソでしょ? めちゃ冷静じゃん!」
「……え?」
 小悪党の減らず口でレリッシュの鋭い目がうっかり丸くなったのを、ニョッタは見逃さない。
「あのっ! 私は本当に怖かったわっ!」
 すかさず助け舟を出したのに、しかし肝心のレリッシュ本人が、
「あ、えっと」
 一応本気で怖いつもりだったはずなのに、疑いもせず嘘だと言われて、おろおろとなった。すると小悪党も呆れて、毒気の抜かれた顔になっていく。
「……ねぇ、こゆときフツー、ウソでも怖いフリすんじゃん。変な子」
 レリッシュが目をしばたたいて、しゅんとなってしまうので、あっとニョッタが声を上げたがもう遅い。ピンクの小悪党は力の緩んだ隙に四肢で弾みをつけて体を起こし、レリッシュはそのまますてんと路地に転がってしまった。一瞬でスリを絞めた早技の持ち主とは思えぬ、いとも神経の鈍い転がり方をして、レリッシュはぶつけた腰をさするのであった。
 小悪党のみならずニョッタも若干、ポカンとなる。
「アンタ大丈夫? ウチ一応、かっぱらい以外はマトモな人間のつもりでいるから、アンタみたいなドンクサ、怪我させんのヤなんだけど。立てる?」
「た、立てます。ごめんなさい。ありがとう」
 小悪党の手を借りて礼を言い、レリッシュは起き上がった。
「アンタ一体何者? ウチこのやり方で失敗すんの、初めてなんだけど? とんでもないのに遭っちゃったと思ったらなんかトロくさいし……変な子」
「な、何よ、さっきから。こう見えたって、立派な冒険者なんだからっ……私は違うけど。でもこの子はすごいんだから!」
 意気消沈のレリッシュが何も言い返さないので、ニョッタが代わって口を出す。ついさっき食事をともにしながら聞いた、冒険者としてのレリッシュを大いに自慢し始めた。迷宮のスナイパーとしてどれほど成果を上げたのか、獣王と呼び名していた迷宮の王者をやっつけて、北の障壁の封印を解いたうえ、新たなる大地で異種族ウロビトと出会い、銀嵐ノ霊峰まで発見したギルド『銀の稲穂団』といえば、界隈ではそこそこ有名なのだ! ――などと、ニョッタは日ごろ店先で聞きかじった噂話と、知ったばかりのレリッシュの控えめな自己紹介を総動員して、さも知っていたかのように脚色たっぷりまくしたてた。剣幕に押されてピンクの小悪党は、次第次第に、思わず知らず瞠目する。
「そ、そんなに?」
「そうよっ、そんなによっ。びっくりした?」
「いや……いやぁ、やっぱ。でもさぁ」
 あくまでも鼻息の荒いニョッタだが、最前の腰から転がっていった姿を目撃してしまった小悪党には、にわかに信じがたかった。真正面からレリッシュを指差して、本のぶつけられた額をさすりさすり、半笑いになって言う。
「こーんな頼りないのが、そんなスゴいトコにいるぅ? きっと、オマケか何かっしょ? オイシイとこだけ乗っかるタイプの」
「――違います。あなたに何がわかるの。迷宮になんか一歩も入ったことないくせに」
 ニョッタが長口上を述べ続けていた間ずっと黙っていたレリッシュは、聞き捨てならず顔を上げた。まなじりを決する顔は、今や不甲斐なさとは確かに違えて怒気をはらんで燃えていた。黄金混じりの茶をした瞳が、今一度飛びかからんばかりに光る――が、そこで人間の怯えの色をにじませたピンク髪を見て、レリッシュはつい口を閉じた。仲間を馬鹿にされるのは我慢がならないが、それで人を傷つけるのは本望ではない。
 ……迷宮。
 こんなに愚図のわたしでも、乗り越えることのできる迷宮。
 それは弓矢を取る者として、仲間に助けられながらの道のりだった。決して自分だけの努力ではない。仲間たちの支えがあってこそ、今の自分がいた。
 けれど、決しておまけでも、添え物でもなかった。レリッシュは今、銀の稲穂団で欠くべからざるスナイパーとして、そして迷宮を越える仲間として、互いに請いてそこにいるのだった。
 レリッシュは精一杯、頭を巡らせる。
「……あなたも、わたしたちと迷宮に来たらいいのに」
「ハァ!?」
 理解不能と言わんばかりの声を、小悪党は上げた。ニョッタもえっと言った。
「だって。迷宮なら採集だけでも、そこそこお金になるから。そうしたら、スリなんてしなくてすみます」
 ピンクのスリはいかにも運動神経のよさそうな細身の体で、すらりと美しい四肢が、なめらかな胴体から伸びていた。失敗しないというのも本当かもしれない。どことなく世間にすれた雰囲気といい、まるで野良猫みたいだ、とレリッシュは思った。
「ヤダよ! ウチ迷宮なんて怖いもん。無理無理」
「でも。その……えっと」
 語彙に乏しいレリッシュが何とか言いくるめようとして迷った口先が思い出したのは、まだ迷宮とも呼べないような場所で、ヘラヘラとした先輩冒険者にかけられた一言だった。
「だ……大丈夫です! だって、私にもできるんだもん! あなたくらい身の軽い、器用な人なら、きっと大丈夫」
 ピンク髪は当然慌てふためくものの、すっかり悪者ぶったニョッタが激しく足を踏んづけるのが先だった。ピンクはぎゃっと悲鳴を上げる。
「痛いってばーッ! さっきから何もしてないウチにひどくないッ!? このろくでなし!」
「何よ、スリのくせに文句つける気? 警邏けいらに突き出すわよっ。牢屋が嫌なら言うとおりにするのよ!」
「ニョッタ、何もそこまで……」
「いいえレリッシュ。中途半端が一番よくないわ。いい? あなたは銀の稲穂団に入るの! それでちゃんと、まともにお金を稼ぐのよ。いいわね!?」
 ニョッタは自分でもなんだが、気の強いほうだった。女のチンピラ一人言い負かすくらい何も怖いことなどない。それに人間というのは、上からでも下からでも、きっと睨みつけられると思わず弱ってしまうものなのだ! 自信を持ってピンクを睨む。
「あ。あと、それと……」
 ふとレリッシュは思いついた。我ながら良い案ではないか、とついつい手を打ってしまうほどに。
「晩ご飯、食べましたか。お腹が空いていたら、今日のお夕飯をおごります」
 レリッシュは固唾を飲み、ピンクは息を呑んだ。ピンクの前で疑いのない金茶の瞳がきらきら期待に輝いている――あまりにも単純無垢な輝きと、きつくねめつける小柄とに、ピンクはとうとう心身ともに追い詰められて、蛇に睨まれた蛙の心地を味わい、頭を抱えて叫び出すに、
「わあーん! もう意味わかんなーい! とにかくその銀のウニャウニャとかってのに、ウチもなればいーワケ!?」
 折れた。
 奇妙な二人組の前に屈して、悔しい思いを抱えてついて行きながらも、しかしこれまで食べたことのない美味しい煮売り屋で夕食にありついたので、ピンクはコロリと態度を変えた。何しろ冒険者は、そこそこ稼げるのだ! レリッシュはピンクが満足そうに舌なめずりする顔を見てにこにこ微笑み、鼻を高くして、翌日冒険者ギルドの前で落ち合う約束をした。もちろん、おいしい朝食をおごることも!

 やがて銀の稲穂団に派手な髪色のナイトシーカー見習いハンナが加わり、レリッシュの初めての友達ニョッタが銀の稲穂団のルーンマスターとなる日が来るのだが、それはもう少し先の出来事である。