印術師ワイヨール

 空に刻んだルーンが光る。かざした左手のロッドから、魔力が漏れて元素に戻ってゆく。詠唱の最後の一言をささやくと、元素は転じて火球を結んで飛び、森ネズミの尻尾に命中した。森ネズミは哀れな甲高い悲鳴を上げる。
 我が術ながら破壊的な恐ろしさで、しかし胸には、ねじくれた高揚を味わってもいた。子供じみた全能感によく似ている……なるほど、これはギルドで管理されなくてはならない危険な術だと、ワイヨールは迷宮のルーンの危険であることを充分に理解した。
 ルーンマスターは、ルーンマスターギルドに登録しなくては名乗ることができない。できると言えばできるが、それはもちろん潜りの術師だ。そういう訳ありの輩には近寄らぬほうがいい。
 すでに印術師の工房で働いていたワイヨールは一通りの基礎と、迷宮向けの応用を兼ね備えている正規のルーンマスターとして、いくつかの講習を免除された。仕事とは真面目にやっておくもので、親方は気前よく推薦状を出してくれたし、講座では起動符作成の経験――恐らくは寝ていても書けようほどに数限りなく書いた呪の一種。その気になれば自作もできるが、必要になる紙とインクは小売されないうえ、恐ろしく高価――も理解の役に立った。適性検査に至っては何を炙り出すのだか見え透いていて失笑ものだ。あれで不適格な術師をはねることはできないだろう。
 とはいえルーンマスターギルドとしては、さほどの問題はないのかもしれない。何しろ迷宮が魔物を遣わしてくるので、必要以上にふるいにかけることはないのだ。
 気を抜けば適切な術を見誤る。術で仲間を傷つける。焦燥で神経が細ってゆくだろう。さりとて魔物は待つわけがない。魔物など、出合い頭に牙を剥き爪を振りかざすのが大半だ。仲間が時間を稼いでいる間に、さっさとルーンを刻まなくてはならない。必要な術を選び、反応を促すために効率の高いルーンを刻む。くれぐれも事故を起こさぬように戦況を観察し、細心の注意を払って術式ガルドゥルを都度組み替える。戦闘の妨げになるからといって、せっかく成立しかかった術を解いて潰してしまうことさえあった。ルーンマスターは考えなくてはならないことが山ほどある。
 特に『銀の稲穂団』は前衛が二人のギルドだ。彼ら二人を支援してやらなくては、いずれ壊滅的被害に見舞われるだろう。前に立つ二人が過剰な危険に晒されることがあってはならない。メディックのマドカはこのごろ「第一目標は生きていること」と口を酸っぱくするが、まったくその通りだった。優先されるべきは武功ではなく生命だ。
 そうした試行錯誤を経て銀の稲穂団は三ヶ月が過ぎ、みな冒険稼業に慣れてきて、特にレリッシュは不首尾を脱しつつあった。
 彼女は静かなスナイパーでなく、味方を避けつつ慌ただしく走るスナイパーになった。目標を中心に右へ左へ射点を探し、見つけた一瞬で射抜く。傍から見ても見事なほどに、彼女の手練は柔軟に切り替わっている。出会い頭に見せた意固地はなりを潜めたが、あながち伊達ではなかったらしい。
 レリッシュというスナイパーが活きると戦況が変わった。ソードマンとフォートレスの二人が魔物にびったりと張りつくのをやめるとスナイパーは活発に矢を撃ち罠を放つようになった。そうすると魔物が危険なレリッシュに狙いを定めるので、ブレロがかばい、ギノロットが斬りつけて退かせる。人間が離れた隙にワイヨールは印術を起こし、再び安全な距離を稼ぐのだ。
 とはいえ、まだ心がけ程度の連携だった。三ヶ月しか経たない人間たちは、そう簡単に協力などできはしない。まるで幼子のボール蹴りのように、ふとゴタゴタと固まってしまう。そうなったら観察役のマドカが声を上げ、散開するよう促した。まろいマドカの声は、硬直しかかった仲間を緩ませるのに丁度よく、それからはマドカを基点に陣を張る習慣が作られ始めた。マドカは少々戸惑ったが、チェスのクイーンみたいに構えていたらいい、とブレロが笑う。ワイヨールも彼女が構えていてくれれば、何となしに安心できた。
 銀の稲穂団は、何とかギルドとして回転している。皆々が各々の役割を果たそうと努力している。
 ルーンマスターギルドで教わった定型の術式も、そろそろ自分用に改良してもよさそうだ――森林カエルの腿を氷槍で貫いたワイヨールは満足して胸の内で笑う。
 左手から溢れて光る魔力は元素に戻ってゆく。次の術を形成するために、彼は集中を求めて一瞬、黒い目を閉じた。