狙撃手レリッシュと迷宮の戦い 2

 店は本来カフェの時間で、バーはしていないらしかったが、滅多なことでは寄りつけぬ男性が三人もいるならと、店主が特別に計らってくれた。やや奥まったところで二人用のテーブルをくっつけて、五人の冒険者はまんまと酒の席に着く。
「ナイス交渉」
「グレート折衝」
 ブレロとワイヨールがマドカを称え、マドカは鼻高々、ギノロットは居心地悪そうにしているが、レリッシュはといえば、変わった内装が作り出す雰囲気に、思わず知らず見とれていた。
 テーブルに置かれたランプのフードがまんまるの月のかたちをしていて、薄暗い手元をぼんやり照らしている。天井からは星をかたどって光る小さな飾りがゆらめき、ちらちらと光っていた。壁は一面落ち着いた紺色に塗られて、ブーケみたいなピンクの花びらが波打つ影を作り出し、淡く綺麗だった。
「レリちゃん?」
「……はい!?」
 突然呼ばれて素っ頓狂な声が出た。しかし呼んだほうにしてみれば何も突然ではなかったようで、マドカはどこかを指差した。細くてきれいな指を追ってみると、店員が注文を受けるべく、じっと待っている。
「あっ……ご、ごめんなさい。え、ええと」
「ビールと梅酒と蜂蜜酒、どれにする?」
「えっ……? はちみつ?」
「じゃあ、それ。お願いしま〜す」
「あ……」
 蜂蜜酒とは何なのか知りたかったのに、店員は立ち去ってしまった。ビールと梅酒は聞いたことがあっても、蜂蜜までお酒になるとは露知らず。聞き間違いかとも思ったのに、尋ねる隙もなかった。
「素敵よね〜。私も見とれちゃう。ほら、あっちは金魚が飛んでるの。何だか不思議だわ」
 再びマドカの白い指が何かを指し示し、そちらでは真っ赤なレースを幾重もまとったような丸い魚が、水草の間を群れになって、天井を泳いでいる。繊細な紙細工の魚は、あるかなしかの流れに乗ってヒレをかすかに動かしていた。
「夢の中みたい……」
 突然別世界に来てしまったようだった。ここがタルシスの街中、それも冒険者ギルドの近くとは思えない。マドカが微笑んで頷いた。
「そうねえ、本当だわ。こんなに手の込んだお店だなんて思わなかった! ねえ、向こう、そこは蝶々と何のお花かしらね」
「えっと……」
「……。ピオニーだろ」
「ピオニー?」
 わからないままでいると、答えを口にしたのは意外なことにブレロだった。花はピンクの八重咲きで、玉のように丸いのに、花びらは薄いカーテンのようで、ひらひらとしている。フォートレスのブレロが、わかって当然と言いたげにきょとんとしていた。
「植えてあるだろ」
「そうなの? どこに?」
「……公園、とか?」
 ブレロ自身もはっきりわからないようで、語尾が上がった。
「うろ覚えなの?」
「いや、見るだろ、あのポンポンした感じの蕾! あれが咲いたらボールみたいになるんだろ?」
「そうなの? 見たことないわねえ……」
「ウソだあ、そのへんで見るよ。あれは絶対ピオニー。何でマドカが知らないんだ、女の子だろ?」
「何よ、文句ある? 私、お花も蝶々も興味ないもの。あなたみたいに乙女じゃないから知らないわ。ふんだ」
 マドカはぷいとそっぽを向いて、頬を膨らませてしまう。
 メディックのマドカは、迷宮の動植物にことさら興味を示す女性ではなかった。レリッシュは内心、彼女が物見遊山でないのかと心配していたというのに、マドカは花を見たいがために仲間を呼び止めたりなどしない。待ってと呼び止められるときは、足元の草が売却できるかどうか見極めるためだった。
「何だよ乙女って。俺が刺繍とか押し花とかできそうじゃねえか」
「おっと待った。刺繍は私だねえ」
「ウッソ!? ワイヨール刺繍!?」
「やだ、乙女」
「母がすごく好きでさあ、昔一緒にやったんだ。黙々と刺し続けるの、なかなか楽しいんだよ。今はそれほどやらないけど」
「えええ! ショックだわ……刺繍なんてできない」
「なあマドカ、それじゃボタン留められる?」
「……ううん、できない」
「やったぜ。俺のほうができる! 俺のほうが乙女だ!」
「いいじゃない、縫合はちゃんとできるもの!」
 雑談に耳を傾けているうちに酒が運ばれてきて、五人は乾杯とグラスを打ち合わせた。ビール三つと梅酒と蜂蜜酒が、溢れんばかりに揺れた。
「ねえ、マドカはさ。シャクヤクなら知ってるでしょ?」
 ブレロが満足そうに口のまわりの泡を舐め取る隣で、同じくビールを一口飲んだワイヨールが言う。梅酒で唇を潤すマドカは当然よと頷いて、
「そんなの、入学前の予習レベルだわ。標本まで見たもの」
「何それ?」
「薬草よ。根っこを薬にできるの。熱冷ましとか鎮痛剤になるのよ」
「そう、それ。ブレロの言ってるピオニーはさ、シャクヤクの園芸種だよ」
 するとマドカは目を丸くして口を押さえた。
「まあ、本当? いやだ、それなら知ってるわ。あんな派手なお花じゃないから、気づかなかった」
「薬のときは土から上には用がないからね」
「そうよ! 私が見たのはね、あんなフリルみたいなお花じゃなかったのよ。大きいのは一緒なんだけど。ボールって言われたら……まあ、何だか、そういう形だったかしらねえ」
「街で見るのは派手な八重咲きだからね。マドカのは一重咲きで、白か赤の花びらをしてて、黄色の蘂がブラシみたいなやつじゃない?」
「それそれ、それ! なあんだ、馬鹿にしないで。よ〜く知ってるわ! ブレロ、どうせあなた、白と赤とで薬理が違うのなんて知らないんでしょう。ふふんだ、ならご覧なさい、私のほうができるわよ。だって薬草園に植えてあるのもちゃ〜んと見てるもの。どこの公園にあるんだか、わかりもしない人と一緒にしないで。私のほうがう〜んとメディックだわ」
 打って変わって得意になるマドカの横顔と、反対に口を尖らすブレロの様子に、レリッシュはおかしくなってつい笑ってしまった。
 そして、仲間と過ごす時間で、初めて微笑んだかもしれない自分に驚いた。わたしは、この人たちと一緒にいると楽しい――。

 レリッシュは仲間の愉快な会話を黙って聞いて、表情の明るいことに安心していた。誰も迷宮で見せる厳しい顔ではなく、和やかに笑って話していた。だから落ち着いた気持ちで、生まれて初めての酒を飲むことができた。薄暗い店の片隅で、蜂蜜とアルコールの香りのする変わった飲み物を舐めるように飲んでいると、少し風に当たりたくなって席を立った。
 店の裏手に出ると少し明るく陽が差していて、やや湿っぽいような感じがあった。空いた樽や箱や大きなごみ箱が置かれているほうに背を向け、建物を這うように登っていく鉄製の階段を、手摺り伝いに上がっていった。地上から最上階の五階まで、靴底が階段を打つ音は階段全体に反響して、複雑で深い音を鳴らした。
 やがて階段は梯子に変わり、辿り着いたのは尖塔だった。人が何人か立ってあたりを見回すことができるだろうか。埃っぽい風が絶えず吹き、あとは青い空があるだけだった。
 壁に背中をくっつけて、レリッシュは膝を抱いて座った。壁も地面もひやりと硬かった。
 遠く街の喧騒が風に乗って聞こえてきて、今自分がいる場所はタルシスなのだ、と気づかされる。それまで育ってきた場所は喧騒を遠ざけた中にあった。四方を壁で囲い、街を遠ざけた家だった。
 たまの使いに門を抜ける以外は、街も人も知らなかった。門の外で猟師として扱われるようになってからも、やはり狩り場と家路以外を知らなかった。だから人馴れしていないレリッシュは、タルシスの街を行き交う人ごみに仰天した。今もひと月は経とうというのに、人々にぶつからず歩くのに覚束ず、どの道を行けばどこに辿り着くのか自信がない。
 ――わたしは家を出るべきではなかったかもしれない。
 家に帰れば、両親は必ずわたしを叱るだろう。一族の恥晒しだと言われて、手ひどく打たれるかもしれない。二度と家の外へは出られないか、どこか遠くに捨てられてしまうかもわからない。けれど一生懸命に謝意を見せ、反省し、頼み込めば、娘としてでなくても小間使いとしてなら置いてくれるかもしれない……。
 尖塔はただタルシスの風が体に触るだけで、他に何もなかった。薄ぼんやりと青い空がレリッシュの胸の中をそっくり映して、見せつけられている気がした。壁も地面もただ冷たかった。
 わたしは家を出るべきではなかったかもしれない。タルシスでも、迷宮でも、わたしは居場所を見つけることができない。どうせどこへ行っても、何を見つけることもできないのなら、家を出るべきではなかったのだ。
 それでも、家にいたところで居場所などなかった。母の手伝いも満足にこなせず、ただ弓執る者としてしか呼吸できなかった。他に生きる手段を知らない。家以外の世界を知らず、家以外の世界で生きていくなんてままならないのならば……。
 どれほどの間、膝を抱えていたのだろう。そのうちに、階段を上がってくる音が聞こえてきた。日常も耳目を凝らして過ごすよう言いつけられて育ったレリッシュは、すぐにそれに気がついた。足音は悠々と音を鳴らし、想像したよりも早く尖塔へとやってくる。一つ飛ばしで階段を踏んでいることに気がついたのは足音の主が四階に差し掛かったころだった――それから、待ち構えるレリッシュと、足音の主との目が合った。彼は銀の稲穂団のブレロだった。
「酔い覚ましにはちょうどいい場所だなあ。来るのが大変だったけど」
 ほんのり赤くなった顔で彼は微笑み、身軽に梯子を上がって何も知らずにレリッシュの隣に座った。長い足を放り出して、子供のようにぷらぷらと振りながら、雑談みたいに口を開いた。
「迷宮、まだ慣れないよなあ」
「……はい」
「今日のこと、ごめんな。気づいてはいるんだが、まだ意識して動けないんだよな」
 レリッシュは意外になってブレロの顔を見た。この苦しみが、他人に感づかれているとは知らなかった。いや――今日のあの後では誰からも明らかかもしれない。そこまで考えるとレリッシュは、ブレロの茶色の目から顔を逸らしてしまった。
「……わたしが、至らないので」
「ギノが君を心配してたぜ」
 ギノロットの名が、今さら胸に突き刺さった。彼はもうレリッシュに背後を任せておけないだろう。被害に遭った盾は表面の硬革をやすやす貫き、矢先が木板に達して深く裂いていた。ベルンド工房の検分によれば、新たに用立てなくてはならないと言われた。無理に使って割れては大変だという。余計な出費だった。だが出費より何よりギノロットは、まかり間違えば命を落としていたのだ。
「……わたし、冒険者には向いていないのかもしれません」
「ああ違う、そういう心配じゃなくて。君が落ち込んでないかどうかってさ。来てみてよかった、あいつの言う通りだった」
「え?」
 きょとんとするレリッシュに、ブレロはあくまでも軽い様子で笑った。
「ギノは話すの得意じゃないだろ? また妙なこと言ったら嫌だから、代わりに見てこいって。だから俺、ギノのお使い。……今ごろ下で気を揉んでるぜ。なかなか戻ってこないってな」
 レリッシュは言葉を失った。あのどことなく冷たい目をした人が、実は気を使っているだなんて考えてもみなかった。もしや顔色がよくないと言ったのも、単に心配の気持ちであったとしたら――まさか、マドカを止めようとしたのも。
 愕然となった。レリッシュは何も言わずにただ流されていただけだった。彼の心遣いをむしろ鬱陶しく不愉快にさえ思ったわたしは、どの口で誤射しないなどと言えたのだろう。
「あの。わたし……!」
「なあなあ、ちょっと俺のつまらない話を聞いてくれ?」
 レリッシュをさえぎり、唐突にブレロは切り出した。レリッシュが戸惑って顔を上げると、ブレロは何か寂しそうな笑顔を浮かべている。
 誰にも内緒な、と前置きしてから、彼はその『つまらない話』を訥々と語り始めた。普段は舌のなめらかな彼が話しにくそうにするのが一瞬不思議で、そしてその『つまらなさ』の意味を知ると、どんどん胸が締めつけられた。
 タルシスに生まれ育った彼がわざわざ定宿を得て寝泊まりしているのも、騎士の叙勲を受けたのに冒険者をしているのも、すべてはそこにあった。彼が騎士にならなかったのは、ブレロが、いやブレロも――自分の家が好きになれずに、家の匂いのするものを、何とか遠ざけようとして苦心してのことだったのだ。
 あのドレスの裾のようなピオニーの花が咲いていたのは、公園なんかではない。彼の生家の一角で、庭師が丹念に面倒をみていたのだ。ブレロの生まれる前から植えられているその花の名を、彼は庭師や、刺繍や押し花の上手い彼の妹に聞いて覚えていたのだった。ブレロは苦笑する。
「それで結局、家のネタで言い合いしてたんじゃあ、格好悪いったらないよな」
 終わりまで聞いていたら、何でもないふうを装う笑顔の正体が、レリッシュの胸をえぐった。
「……どうしてわたしが、家出してきたってわかったんですか」
「君くらいの子が一人でタルシスにいて、親の話も出てこないなんて、何か訳ありだろうなって。それに君は人が得意じゃないだろ? だから……嗅覚、みたいなものかな」
 嗅覚。
 レリッシュは目を見張った。同じ『つまらなさ』を抱いている人間を見つけ出すそれを、この人は持っていたというのか。わたしのこの無力感を、この人は――。
「だからまだ辞めないでくれな? 俺はレリッシュが仲間で、結構嬉しいんだ。共同戦線みたいでさ」
 ブレロが互いの間を指さし笑う。だがレリッシュは首を振った。
「自信がないんです。もう、続ける自信が……あなたはすごい……」
 彼は一度も『嫌い』とは言わず、好きじゃない、とだけ言った。妹の話に差しかかったとき、彼の目にははっきりと慈愛が浮かんで、大切に思っていることは自然とわかろうものだった。
 羨ましくなった。兄からそんな愛情を向けられたことなどなかった。
「話していいですか……? わたしの家は、そんなじゃなかった」
 レリッシュも、ぽつり、ぽつりと話した。父は武芸に没頭し、母は顧みられず、兄は与えられた武の道を歩もうとして心を捨てていたこと。レリッシュもまた、父の示す道に沿って生きていたこと。
「でも、父が必要だったのはわたしじゃなかったんです。だってわたし以外にも、剣や弓を習うお弟子さんが沢山いたから。沢山いる教え子の一人でした――兄も、わたしも」
 ある日、町で狩りの手が足りないというので、レリッシュは初めて家の外で弓を執った。空を飛ぶ獲物も初めて見たが何ということはなかった。得られた収穫を上手く捌く方法を、生温い血と肉にまみれながら覚え、そしてふとそのはらわたの悪臭を嗅いだとき、「わたしは家の外にいる」ということに気がついた。
 家の外で学び、生きている。狩るために自分で考え、自分で歩き、自分で得たものと引き換えに他人を満足させている。
 父の娘として扱われていない自分。ひとかどの猟師となり始めた自分。どちらがより望みの自分に近いのだろう。
 とっくに答えのわかりきった、考えるまでもない問題をひと冬の間悩み続けて、春に花が咲いたとき、ついに実行してしまった。狩り場に出た朝、誰もが目を離した一瞬を見つけて、そのまま帰らずに飛び出したのだ。そして何ヶ月も待った。誰かが自分を探しに来るかどうか試した。
 だが、逃げたレリッシュを取り戻そうとするものは、ついぞ現れなかった。
 あの町の中でそこそこ名の知れたあの家なら、きっとレリッシュを探すことができた。だから町から町へ流れる間、弓術の道場や弓師、精肉の元締めのところへ姿を見せたのだ。弓矢を下げていかにも射手の顔をして、弓と関わりのあるところへ、尋ねられては真の名を残していった。
 しかし『レリッシュ・マグメル』はまだ誰にも身上を暴かれたことはなかった。彼女の名を『ヨーカ・モンド』だと看破する者は現れないまま、とうとうタルシスまで流れ着いてしまっていた。
 あの家に戻ったとしても、レリッシュはあの家に居場所を見出すことはできなかった。父と母は笑わずに怒ってばかりいて、兄は感情というものを捨て去っていた。だからレリッシュは感情が余計なものだと思い込んでいたのに、口さがない弟子たちに、兄妹揃って人形のようだと陰口を叩かれているのを知ったら、胸が潰れそうなほど苦しくて、だからタルシスまで逃げてきてしまったのだ。
「なあんだ! そういうことなら、ますます銀の稲穂団にいる理由ができたな」
 ブレロは笑ったが、レリッシュはうまく返事ができずに口篭った。
「焦るなよ。俺たち始まって一ヶ月の冒険者だろ? そんなに簡単に成果が出せたら、街中もっと冒険者だらけだ! ほら――レリッシュは、弓を使って何年目?」
 十二年、とレリッシュは答えた。居場所がほしくて居座った年月の数だった。
「十二年の熟練者が手こずるのが迷宮なんだぜ。あのな。俺はレリッシュがいてくれてよかったと思ってるんだ。木箱荒らしの狒々退治、あれはどう考えても君なしじゃ無理だった。あの罠なしで、一体どうできたと思う?」
 と言われても、せいぜいブレロが挑発して引きつけているうちに、誰かが痛打を加える以外、レリッシュは思いつかなかった。だがそう簡単に事が運ぶわけはない。賢い狒々が挑発に乗る時間は、恐らく長くない。獣を出し抜くのは難しい。そして彼らは動きの悪い獲物から順に仕留めるくらいわけもない――想像したくない光景が浮かんだレリッシュが答えられずにいると、ブレロは微笑んだ。
「な? 君は俺たちに必要なんだよ」
「……そうかも、しれません……」
 励まそうとするブレロのために、レリッシュも何とか微笑み返した。痛々しく悲しい微笑みだったが、笑えること自体が、救いなのかもしれなかった。あの家で笑わせてくれる人など一人もいはしなかったのに、この間知り合ったばかりの人が、自分を必要だと言ってくれる――胸が不思議と熱くなって、鼻の奥が痛くなったかと思うと、ぽろりと涙がこぼれ出た。用意のいいブレロがポケットからハンカチを取り出して差し出す。
「下でみんな待ってるぜ。行こう、レリッシュ。君が戻ってきたら、パフェタイムだって決めてるからな」
 慌てて目を押さえたレリッシュは、店へ戻ることに決めた。パフェという、アイスクリームとホイップと果物の、奇跡の組み合わせを、きっとマドカが首を長くして待っている。ひんやりとした風でレリッシュの目元の赤みが消えたころ、酔いから覚めたブレロと二人して、長い階段を鳴らして降りていった。

 一番驚いていたのはギノロットだ。パフェグラスにてんこ盛りになったアイスクリームとホイップクリームとフルーツは、キャラメルソースを惜しみなくかけてあった。ギノロットは切れ長の目を真ん丸にしながら、てっぺんのホイップクリームをすくい取って、ぱくりと食べた。
 何かの感想を期待しながら四人は待っていたが、クリームの感触をじっくりと舌の上で確かめるギノロットは、まだ何も言わない。言う代わりにもう一匙クリームをさらった。食べた。じっくり舐めた。そしてまた一口食べる。
「ギノちゃん?」
「……ん?」
「今の気持ちを聞かせて?」
「甘くて、うまい」
 いたく真剣な顔をして、ギノロットは告げる。
「こんなん初めて食べた。おいしー」
 真剣な眼差しのままアイスクリームを一匙口に運び、冷たそうに顔をしかめ、さらに添えられていた苺を取って食べては、
「これ酸っぱい!」
 だんだん子供のような顔つきになってきて、再びホイップに舞い戻り、すくい取ってその感触を楽しんだ。
「甘い!」
「ほらあ、損してたでしょう?」
「してた! めちゃおいしー! この、濃いめのフワフワがすげーいい!」
「それがホイップクリームよ」
「ほいっぷくりーむ? んじゃ、これは?」
「それはアイスクリーム」
「あいすくりーむ。じゃーこの、ちょと苦いやつ」
「キャラメルね」
「きゃらむ……きゃらめる!」
「どうぞ、た〜んと召し上がれ! 私のおごりよ」
「――やったっ!」
 最も気に入ったらしいホイップを残しながら、大きくすくって嬉しそうにばくばく食べるので、彼はもはや完全に子供で、復唱してみせた言葉の発音さえ子供めいていた。迷宮での鹿爪らしい態度がうそのようで、レリッシュはくすくす笑ってしまう。
 倣うようにレリッシュもホイップを一匙すくって舐めてみて、はっとなった。自分でもわかるほど目をぱちくりして、パフェの姿を確かめてしまった。
 一番下からコーンフレーク、アイスクリーム、キャラメル、賽の目に切られた苺とキウイフルーツ、ホイップ、それからまたたくさんたくさん……最後に、すくい取られて傾いたホイップクリームがくるりと渦を巻いて、てっぺんに。絞ったカーテンを逆さまにしたようなガラスの器へ、全部を我が侭みたいに満載してあった。
 生まれて初めて食べた、ふわふわ甘くて、ひんやり冷たい、難しい顔をした男の人も子供にしてしまう、面白おかしい食べ物の味。
 作り物みたいなのに美味しかった。贅沢みたいで信じられなかった。甘いものを食べたことがないわけじゃないのに、どうしてか心が苦しくなって、うそみたいで涙が出てきた。綺麗な色した果物がぴかぴか光って、目にまぶしくて、後から後から涙になっていってしまう。みんなが驚いた顔でレリッシュを見つめた。嬉しそうにしていたギノロットまで。
「ごめんなさい」
 涙を止めたくて固く目蓋を閉じてみたが、そんなことで止まるわけがない。レリッシュは一生懸命涙を拭った。せっかくみんなが楽しい気分でいる場所で、いつまでも迷惑をかけている自分が情けなくてみじめだった。
「ごめんなさい――!」
 再び逃げ出したくなって席を立ちかけたら、マドカが怒って鋭い声を出した。
「やっぱり思いつめてたんじゃない! ギノちゃん、絶対あなたのせいよ! もう私、ず〜っと忘れないから。ねえレリちゃん、聞いてたでしょう? あのときのこの人ときたら、冷たい顔して『何でもない』ですって! 何よ、心底生意気だわ。頭にきちゃう」
「んなっ……別に、」
「言い訳無用よ! もう一生忘れないから。あなたも聞いたわよね、つーんとして、『何でもない』! ……あ〜んもう、憎たらしいったらないわ! こんなに真面目な女の子に向かって、その態度。何よ、もっと優しいことは言えないの? ちゃんと励ましてあげればよかったんだわ。あなたがホイホイ考えなしに剣でも盾でも振り回すから、レリちゃんの邪魔になってるのに! なのに何よ、何でもないぃ? ふんだ、ちゃんちゃらおかしいのよっ! 後ろを見てからものをおっしゃいよっ」
 二度もそっくりに声真似するので、ブレロとワイヨールが我慢しきれず忍び笑いして、ギノロットは口をぱくぱくするが、何にも言い返せないままだった。しかし当のレリッシュはといえば、あまりにもマドカがかんかんに怒るので、かえって自分の気持ちがしゅるんと引っ込んでしまって、浮きかけた腰を慌てて下ろした。
「あの、マドカ落ち着いて……当たっていたら、死んでいたんです。怒られるのはわたしです」
 まして優しく励ますなど、できるわけがないのだ。盾に当たっただけでも恐ろしいのに、気にせず射てと言える人がいるはずなければ、気にせず射てるレリッシュでもなかった。けれどマドカにはそんな一言、無駄だった。
「だめっ! 許しちゃだめよ。ぜ〜ったいに忘れないわ、あの冷た〜い顔。ほんっとうに、ちっとも素敵じゃなかったわ。ずっとずうっとムカムカしてたのよ――あなたなんて、こうしてやるっ」
 と言うが早いが伸びた両手にギノロットは頬をギュウギュウ挟まれて、普段の澄ました表情からは考えられない不細工なジャガイモみたいな顔にさせられてしまう。ギノロットはやめろとか離せとか言ってジタバタして、ブレロやワイヨールにけらけら笑われたが、結局マドカから本気で逃れようとはしなかった。振り払おうとすればいつでも思い通りになるはずなのに。
 それでレリッシュはようやく気がついた――この冷たい目の人は、口では何も言わないけれど、本当はどうしてなのだか、優しい。

 夢の中から現実に戻ってきたほろ酔いマドカは、上機嫌にニコニコと、今にも踊り出しそうにしていた。
「真っ昼間からお酒とパフェって、背徳的で楽しいのねえ」
「たまにはありだねぇ。こんな休憩も」
「でしょう? もしも行き詰まってきたら、即お酒、即パフェね! もう、決まりだわ」
 力強く拳を握るマドカの話を、頬を散々グニャグニャにされたギノロットは、呆れた顔して聞いていた。だが嫌とは言わなかったし、レリッシュも嫌ではなかった。
 こんな風に緩んだ反省をしたり、おかしな言い合いをしたりする日が、冒険者には許されているなら、ときどきあればきっと素敵だ。銀の稲穂団はみんなそう思っている――と、レリッシュは思っていたし、実際それは正解だった。
 仲間と別れたレリッシュは、宿までの帰り道の中で、いつもよりも遥かに軽い昼下がりの財布について考えてみた。今日の財布の軽さは、忘れられない軽さかもしれなかった。そして何の成果もなかったのに、昼間から晴れがましく布団に包まったのは、生まれて初めてだった。