狙撃手レリッシュと迷宮の戦い 1

 迷宮を探索するようになってひと月が経とうとして、銀の稲穂団はようやく集団のまとまりをもって魔物に挑めるようになっている。ソードマンのギノロットが先陣を切り、ワイヨールの印術が突き崩し、ブレロの鎚が押し潰すのだ。メディックのマドカはギルドの命綱として慎重さを忘れないし、怪我にも適切な処置を施す。当初こそ互いに遠慮がちに様子をうかがっていたが、目の前の事態と自分の技術が噛み合うにつれ、みな冒険者としての振る舞いを確実に身に着けている。
 銀の稲穂団の活動範囲には、人間に大怪我を負わせるような魔物はまだいない。せいぜい森ネズミや荒くれ狒々の爪や牙が鋭くても、そういうときは人間も油断なく、盾と鎧で守りを固めたブレロとギノロットが、後ろの三人をかばうように立ち回る。
 その中で、レリッシュは一人歯噛みしていた。うそだ、とレリッシュは思っていた。迷宮は違った。猟で野生の動物を射るときとはまったく違った。
 目標が動くのはまるで一緒だ。動きを絡め取る罠矢が有効なのも同じだ。でも違う。違うのは、人間がいることだ。目標の前で人間が二人、ついたり離れたりを繰り返し、人間が邪魔でいっかな矢を放てないのだ。彼らが盾を振りかざし、身を挺して仲間を守ろうとするとき、一瞬でレリッシュの射線は奪われる。獲物の姿が人間に隠されてしまう。
 どけてくれ、と怒鳴りたくなる自分を必死で抑えていた。ソードマンとフォートレスがいなければ、傷を負うのはレリッシュだ。そう思うと自然と手数は少なくなり、想像よりもずっと矢が残り、歩けど腰の矢筒は一向に重たかった。レリッシュがいつ矢を放つか苦悩する間、ワイヨールは変化の強い印術を駆使し、魔物の勢いを大いにくじく。火球が群れの真ん中で弾けて飛び散るとき、魔物たちは一様にたたらを踏んだ。印術だからできる芸当だ。
 ――迷宮でわたしの弓が通じないなんてうそだ。
 平静を装うレリッシュの胸の奥で、焦りは火のようにくすぶった。わたしはこれまで何度となく狩りをしてきた。誰よりもよい成果を挙げてきた。十六歳とは思えないと誰もが舌を巻いた。将来が末恐ろしいとも言われた。だからこそ迷宮でもやれるはずだと確信を持ってやってきたのに、この屈辱は、この惨めさは、一体何なのだろう。

 気球艇を発着場に着けると、レリッシュの孤独な苦闘は終わる。迷宮の冒険とは無関係な人間とその街が見えると、迷宮は幻になってどこかへ掻き消えていって、慌ただしく現実が押し寄せる。
 銀の稲穂団が幻の世界から持ち込むもののうち、人の口に入る食材は、近くの交易場で待ち受ける仲買人がすぐに目を走らせて、こちらが何を言う間もなく買い取られていってしまう。人が殖やせない野生の食材は、タルシス人の何よりの愉しみだ。
 値踏みが行われている間、空気のいい発着場の片隅を間借りして鎧や篭手や脛当てといった防具をすっかり外し、泥や汚れを拭き落としてしまうと、レリッシュはやっと冒険者の仕事が終わったと思える。簡単な清掃だから完全とはいかないが、少なくともここではそれ以上を禁止されている。冒険者の溜まり場になってしまうのを嫌っての取り決めであるが、レリッシュはそれで満足していた。満足というより、ありがたかった。やっとの思いでタルシスへ帰ってきたのに、人間の街でまで冒険者の顔をしていたくない。
 気球艇の帰港点検が終わると、港員は諸費用の引かれた食材の売上を手渡してくれる。それをみなで山分けして解散する日もあれば、冒険者ギルドの会議室を借りて反省会を開く日も、どこかで食事をする日もある。しかし一番にやるのは、嵩張る素材をベルンド工房へ売り払いに行くことだった。
 工房の看板娘はいつも銀の稲穂団の成果を喜んでくれる。レリッシュと同じ年ごろらしい彼女は、ベルンドちゃんとか子ギツネちゃんとか、何かしらの愛称で呼ばれて、呼ばれるたびに笑顔で振り向く。天気のよい昼下がり、彼女は相変わらず鮮やかで、同性のレリッシュの目にさえまぶしい。振り向くとともに翻る金色の髪は甘い蜜のようだ。
「お疲れ様、銀の稲穂団!」
 魔物の解体がスナイパーの仕事であるのは概ねどこのギルドでも同じようで、看板娘も心得ている。労う声をかけられたのは荷物を受付台に載せていくブレロでなく、その影になっているレリッシュだった。気づいてもらえたのが嬉しくなって、レリッシュは面映ゆくなる――冒険者稼業の中で最も得意になれる瞬間でもある。
 迷宮で得た草木や鉱石が買い取り対象になる中、とりわけ魔物から採取した素材は、レリッシュが汚れを厭わず解体して得たものが主だ。看板娘と工房の職人たちが手際よく検分していき、素材として買い取られるものと、損傷のせいで素材にならないものとが区別され、その中でレリッシュの解体したものは買い取られることが多かった。女ながらに猟師として解体に慣れたレリッシュが、銀の稲穂団に貢献できていると思える数少ないひとときだった。
 査定が下るのを待っている間、レリッシュはいつも、冒険者を続けていられる理由を探していた。たとえ現場で手数にならなくても、技が金銭に替わるから、得られる武具が増えるから、昨日よりもよい暮らしができるから、スナイパーをしていられる。迷宮の屈辱を味わっても、この時間があるから続けていられる……。
 猟師と冒険者の稼ぎはすぐに逆転し、迷宮を続ける理由は充分だった。タルシス近辺の森林や草原を狩り場にするだけの猟師の稼ぎは知れている。統治院が一般の立ち入りを禁じる迷宮に赴けるのが、冒険者の一番の強みだ。
 だが、こういう鬱屈とした日々が、十六にしかならないレリッシュの心を絡め取っていくには、これもまた充分だった。

 銀の稲穂団はさる依頼を果たすために『小さな果樹林』と呼ばれる古い林へ踏み込んだ。ベルンド工房が迷宮の『竜血樹脂』を求めたためである。新商品を作成するのに必要なのだという。
 竜血樹脂についてを、レリッシュは知らない。その詳しくはマドカとワイヨールが知っている。果樹林に至るまでの気球艇の中で彼らは何かの説明をしていたが、ほとんどが右から左へこぼれ落ちて、自分に必要なのはただ、一行の飾りにならないように射線を見つけなくてはならないということだけだった。
 小間使いの依頼は駆け出しギルドにはちょうどよいと、冒険者御用達の酒場『踊る孔雀亭』の女主人は艶っぽく笑った。女主人は銀の稲穂団を、使い走りとしてはまあまあの腕前だと認めたらしい。
 というのも銀の稲穂団は数日前、冒険者たちが共有する木箱を守るために、一匹の狒々を討ち取っていた。この成果があったからこそ、銀の稲穂団は今日のクエストを請け負う資格を得たのだった。
 ――狒々のことを思い出すと、レリッシュの胸には苦いものが広がった。狒々を相手取ることを知った慎重なマドカが、レリッシュの罠矢を使えばどうかと提案して、盾役のブレロが戦列をコントロールしたので、このときは誰も壁にならず、レリッシュは悠々と仕掛け矢を射る時間があった。
 そのはずなのに緊張と経験不足はなかなか仕掛けを動かさなかった。充分な重さが仕掛けにかからない限り、罠は発動しない。縮こまり強張る心身が弓を押させず、矢を遅くし、繰り返すこと四射目にしてやっと成功したが、成功の果てには仲間がはだかりレリッシュの役目は消え失せ、やがて依頼は狒々の沈黙とともに達成された。
 レリッシュは、もしまた厄介な魔物がいても、もっと楽に済むようにと願った。願いながら果樹林の草道を踏みしだいて進んだ。名も知らぬ冒険者が過去に道を拓いた跡を辿って、狩人としてするように、冒険者としても耳を立て、目を凝らし、周囲の状況に警戒し続ける。
 果樹林などという牧歌的な呼び名はまやかしで、一歩踏み込めば魔物の巣窟だ。鹿と狒々との魔獣が我が物顔ではびこっている。迷宮の魔物は人間を排除するのに躊躇がなく、威嚇抜きの急襲も驚くにあたらない。迷宮を『迷宮』と呼ばせるのは、人間を陥れる罠だけでなく、魔物たちの恐ろしさにもある。
 しかし努力もせんなく、レリッシュはついに事故を起こした。射線を見つけて矢を放した瞬間、ギノロットが予想外に身を翻し、左腕の盾に音高く命中したのだった。メディック・マドカが反射的に悲鳴を上げたが、射たれた本人は忌々しげに盾から突き出た矢を手折り、再び魔物たちを相手取ろうと剣を構え直す。
「何ともない、下がってろ!」
 ギノロットはレリッシュを一顧だにせず、飛びかかってくる森ネズミを鮮やかに斬り返した。血が宙を舞い、紫の被毛の体がもんどり打って転がった――銀の稲穂団が浮き足立ったのはほんの一瞬、彼らは襲い来る魔物に抗って再び剣を鎚を、印術を振るい、手早く治療の手はずを整え、レリッシュ以外の全員が、ただちに戦列に返っていく。レリッシュ以外の全員が、森ネズミの群れを払いのける。
 ついにやってしまった。仲間を射った、とうとう……戦う仲間たちの姿を見て我もと思うのに、びりびりと痺れて手が上がらない。足が動かない。耳の中で盾を射つ乾いた音が何度も何度も鳴り響く。まるで練習場の的に当たったような軽い音が。
 仲間たちがめくるめく戦いの舞を舞う中で、レリッシュだけが、まともにものを考えられなかった。ただ立ち尽くして、誤射する狙撃手など矢を執ってはならない、なのについになってしまった――そればかりがぐるぐると頭の中を回転した。
 林の魔物はレリッシュが棒立ちで立ち尽くしている間にすっかり倒され、スナイパーの出る幕はなかった。また今回も、レリッシュは必要なかったのだ。
 どれくらい愕然としていたのか知れない。が、レリッシュはマドカに肩を叩かれて我に返った。
「――大丈夫には見えないわね」
 マドカは眉をひそめる。
「いえ……大丈夫です。行けます」
「だーめ。今日はもう戻ります。ワイヨール、アリアドネの糸を出してちょうだい」
「でも、」
 戻るにしても糸が必要なわけがなかった。銀の稲穂団は果樹園にやってきたばかりなのだ、到着から一時間も経っていないに違いない。今糸を使って帰ったら赤字になってしまう。しかしマドカは頑として譲らず、レリッシュの手をぎゅうと握った。
「言い訳ご無用です。さ、ワイヨールお願い。帰るわよ」
 メディックのマドカが帰還と言えば絶対に帰還だった。器用なワイヨールが荒れた地面に円を描くと、鮮やかな赤紫が花吹雪のような柱を立ち上らせて、銀の稲穂団はタルシスの街へと運ばれる。挫折とも転移とも知れぬ目眩が、レリッシュを襲う。

 街に辿り着いても、自らの装備に落とすべき汚れさえないのがショックだった。革鎧のどこにも返り血や傷はなく、たかだかブーツの底にこびりついた泥を取り除くので終わった。前に立って剣で戦っていたギノロットの装備を解くのを手伝うと、彼は言った。
「……顔色、よくねーな」
 レリッシュは、わざわざ彼の言う気が知れなかった。傷口へ無遠慮に爪を差し込まれるみたいで、ただ唇を噛んで、何も答えられないままでいた。やっと回収できた森ネズミの汚れた毛皮が、視界の隅にあるばかりだった。
 気球艇の点検は問題なく終わり、売り払うべき食材も持たない。ベルンド工房で用を済ませて、その乏しくみじめな額の報酬を分ける段になってから、マドカが割って入ってきた。
「ねえ。私、昼間から美味しいお酒が飲んでみたいんだけど、どうかしら」
「ハァ? 何言ってんだお前」
「いいじゃない。冒険者〜って感じのこと、してみたいんだもの。あなた、やったことある?」
 難色を示すギノロットを放ったらかして、レリッシュを覗き込むので、ない、と首を振る。しかしレリッシュはどこへ行く気もなく、わたしは帰りますと言いかけるが、ブレロがぱっと顔を輝かせて、
「パフェが食べたい、俺、パフェ!」
「いいねぇ。たまには食べたいよね」
「何、パフェって」
「ええっ? あなた、知らないの? アイスクリームとホイップクリームとフルーツの、奇跡の組み合わせよ? 本当に知らないの?」
「知らない。何それ」
「いやだ。あなた絶対に人生損してるわよ! 勿体ないわねえ」
 マドカが言い立て、ブレロもワイヨールも首を揃えて頷いた。レリッシュもパフェというものを食べたことがない。言葉を聞くのも初めてだった。
「あのな、アイスクリームにウィスキーかけて食うと激烈にうまいの。ウィスキーのパフェ、俺大っ好き。知らないだろギノ」
「ふーん。知らない」
「それならさ。ギルドの近くの酒場なら必ずどこか開いてるよ。……そうだね、女の子受けしそうなところで覚えがあるから、頼めば出るんじゃないかな」
「やった、ワイヨールすてきよ!」
「でかしたあ! いいぞワイヨール、そこ連れてってくれ!」
 勝手に盛り上がった三人がうきうきしながらさっさと進んでいってしまう、取り残されたのはレリッシュと、街ではいつでも面倒くさそうな顔のギノロットだった。
「さっさと帰りてーのに……」
 ぼやくまでする。全く同意だった。迷宮の重たい装備を抱えているのに、三人は荷物のことなど気にも留めずに行ってしまう。不満な気持ちのまま、ただ三人の背中を追いかけて歩き続けると、やがて見たことのないような構えの店と出くわして、先導のワイヨールはそこで足を止めた。ブレロが面食らって、
「ふおっ!? 何ここ?」
 と変な声を上げた。
 店の外壁は白に近いピンク色で塗られている。壁面を黄緑のツタが生い茂るので、ピンクの淡さは余計に目立った。茶や橙や緑の色彩で調和するタルシスの町並みの中にあって、一際異彩を放つ店造りだ。まるで小さな女の子や赤ん坊のための見かけをしていて、レリッシュは、子供用品の店なのかと誤解した。マドカがそれをパステルピンクと呼んで、ワイヨールを妙な目で見る。
「こんなお店、よく知ってるわねえ」
「だって、いっぺん見たらもう忘れられないじゃない? 絶対に男だけで入れないしさあ。ここはもうマドカとレリッシュに力を借りるしかないだろ?」
「な〜るほど。そして、いかにもパフェが食べられそうな予感がするわね」
「でしょ? 何だかそんな色してるもの」
「……俺も、ここ知ってる」
 レリッシュの隣で、訝しい顔をしたギノロットも言う。
「女ばっかり群がってて何の店かと思った」
 もちろん掲げた看板を見ればカフェとバーとを兼ねた店であるのはわかるのに、ギノロットは相も変わらず文字を読めない。そしてあまりにも風変わりな外観のために、彼の中では不可解な店として覚えられていたようであり、
「俺、ちょっと入んのやだ……」
「ごめんくださ〜い!」
「っおい、お前っ!」
 ギノロットが最後まで言う前に、マドカが一人でドアをくぐって行ってしまう。チャイムのさやさやとした音が鳴って、ドアは呆気なく閉じられた。
「あいつ……」
「まあ、気持ちはわかるが」
「なら止めろよ」
「いや、でもな。パフェだぞ? お前は人生損したままで本当にいいのか?」
 絶対に入るつもりでいる興味津々のブレロに、ギノロットはそれ以上を諦めたようだった。レリッシュはといえば、とっくに何を言う気も失っている。ただ悄然とした思いがのしかかって、浮かれる三人を恨めしく感じていた。
 店の中で少しのやり取りを経て、マドカは満面の笑顔で戻ってくる。
「今日の報酬、なかったものと思ってパーッと使いましょ!」
「てめー、いー加減にしとけよ。さっきから人のこと無視しやがって」
「あら、不満? ならギノちゃんは私のおごりよ。文句ないでしょ?」
 行くわよ〜う。上機嫌のマドカはレリッシュの手を引いて店へと入り、レリッシュは引きずられるようについていく。振り向いたギノロットの顔は、明らかに侮蔑の色をしていた。