剣士ギノロットと辺境タルシス 1

 幌の向こうの御者と、相乗り客に「ありがとう、元気で」と言って、彼は乗合馬車から飛び降りた。長い距離をともにした相乗り客らはみなギノロットの肩を叩いたり、手を振ったりして別れの挨拶を返し、各々の目的地を目指して、あちらこちらへ去っていく。
 大きく息を吸い込むと、旅装のギノロットはついにやってきたタルシスへの期待で胸が一杯になった。
 ここが世界樹を望む街、柔き風の街、冒険者の止まり木、辺境の都市タルシス! 肌に触れる風はあくまでも柔らかく、ほんの少しひやりと冷たく、乾いた空気の中にかすかなる緑の匂いが混じっている。爽やかな風はギノロットの茶色い髪を梳いた。
 南洋から少しずつ北上してあちこちを眺めてきたギノロットだが、こんなに手入れが行き届いて人の多い駅は初めてだった。整然とした広場をひっきりなしに人が行き交い、御者が誰かを呼んで大声を上げれば、馬のいななきに蹄の音。食い散らかされた飼い葉を片づける馬丁と客とでごった返している。そこここには木樹が植えられた日陰には溢れそうなほど花が咲き乱れていた。石畳をきれいに敷き詰めた目抜き通りは、砂埃で目をこすることもない。
 この大きな街さえ辺境と呼ぶのなら、ギノロットの故郷はかろうじて人が貼りついていたにすぎない。鄙びた浦里に生まれ育った彼には、どんな町も村も、故郷よりは広く高く大きくて、とりわけタルシスは、くらむほど人が多い。
 人を避けるのにも一苦労しながら雑踏の中を歩き出すと、背後で馬車の出立を告げる鐘が高らかに鳴らされた。
 馬車に揺すられるだけの旅でも腹というのは減るものだ。まずは腹ごしらえにでも――と考えたところで、一艇の気球艇がギノロットの頭上を飛び、地面に淡い影を落とした。北へゆく小さなその船は恐らく、遠く世界樹を目指す冒険者の駆るものなのだった。
 丘陵のタルシスは、あの樹の姿を目にできるので評判だ。ならば、その世界樹の姿を一度眺めに行くのがいい。坂を登って歩いてみればどうにかなる。世界樹が逃げて消えるわけでもない――踵を返した彼の首元でサメの歯の飾りがぽんと跳ね、触り心地を指先で確認してから荷を背負い直すと、腰に佩いた剣が鞘鳴り、ギノロットは歩き出した。
 ようやく辿り着いたタルシスの街がどんな場所なのかもっと知っておきたかった。なにせ当分この街に住まなくてはならない。時間と体力はいくらでもあるし、冒険者になるために行かなくてはならないという『冒険者ギルド』へ向かうのは、今すぐでなくてもいい。懐にも多少の余裕がある。
 彼も他の冒険者と同じように、伝説の世界樹を求めてタルシスに現れた旅人の一人だった。人を永劫の楽園にいざなうという世界樹へ赴き、その楽園に辿り着きたかった。そうでなくてはタルシスに来た意味もない。
 ギノロットの旅装は風に翻る。タルシスの坂道は緩やかにどこまでも続くように思えた。硬い石畳の道はくねりながらいずこかへ伸び、商店の多い道を抜け、やがて住宅が現れる。住宅と言っても大きな建物にいくつもの部屋をもうけて、そこで別れ別れに暮らしているらしい。そんなに狭く暮らしたことのないギノロットにはせせこましく、息苦しく見えなくもない。
 だが、なかなかどうして悪いところでもなさそうなのが不思議だ。
 そうというのもこの街は無機質な石の街ではなく、どこも生命の鮮やかな色彩で覆われているからだった。窓辺や玄関先では隙間を埋めるようにとりどりに咲きほころぶ草木があって、瑞々しい緑の香りはギノロットの鼻をくすぐった。小さな子供たちがきゃあきゃあと踊るようにはしゃいで路地裏へ消えて、明るい声は建物の間に響きながら遠のく。
 季節は春。最も心躍る時期だった。どんなに道が分からなくても、心は目減りしなかった。緩い長い坂道は時々急になったが、立ち止まってふと振り向けば、大らかな青空のもとで緑の屋根と白の壁の街並みがあり、それはどこか森を思わせる風景だった。
 やがて直感はギノロットを高台へと導き、伝説の世界樹はその巨大な姿を露わにした。見ればなるほど、世界樹と呼ばれるわけもある。
「すげー……」
 大いなるものへの単純な感動が、どことなしか少年のような浅い声になってぽろりと漏れ出した。見晴台の金属の手すりから身を乗り出すので、旅装の裳裾が丘の風にはためく。
 まだ誰も越えたことのない山脈の向こう側で、その大樹は建造物のように一本だけ、堂々たる偉容を見せていた。まるで塔とも見間違うが、まぎれもなく生命の、魂持つものの空気をまとって、遥か彼方で呼吸している。あれは、本当に生きている。誰も辿り着いたことがないのに巨木と呼ぶ意味が分かる。世界の名を冠した理由も。遠目にもごわごわとした樹皮の影があり、幹から伸びる大小の枝は豊かな葉に覆われ、風でゆったりそよいでいるように見える。何とも鷹揚な巨影をしていた。
 おそらくはあの木の根本に、永劫の楽園と呼ばれる場所があるに違いない……そう考えるとギノロットの心臓は高鳴った。
 もしも本当に世界樹が『永劫の楽園』へいざなってくれるなら。
 もしも永劫の楽園が存在するのなら、そこにはあらゆる飢えも渇きも満たす、いくらもいでも尽きぬほどの金の果実が実っているのだという。昼には極彩色の鳥がさえざえと歌い、よろずの酒と並べきれぬ幸いがあって、やがて何に怯えない夕べを迎えたら、あの誰をも拒まぬ柔らかそうな枝葉にくるまれて甘い夢を見るのだという。
 幼いころのお伽語りやここに来るまでの間に聞いた噂話がいくつも浮かんだ。どんなところでもきっと素晴らしいに違いない――タルシスに辿り着くまでに夢想した数々が、彼の中に再び蘇る。
 ギノロットは願わくはそこで、もう会えなくなってしまった人たちと再会できればいいと望んでいた。もっともそう望むまでの経緯については余人の知らぬ理由があるのだけれど、彼はまだそれらを語るすべを持たない。
 彼の濃い灰色の瞳は、ひたと世界樹を見つめて開かれていた。あの世界樹を目指して、そしてどうか辿り着きたい。そのためにタルシスまでやってきたのだ。ただそのために――彼はサメの歯の首飾りを固く握り締める。郷里から道のりをともにした、たった一つの品である。

 ところが、冒険者ギルドでギノロットは戦慄した。タルシスでは滅多やたらと文字を使うのを知っていたが、掲示版とやらを目にしたギノロットは、立ち尽くすより他になかった。
 ギノロットは想像していなかった。こんなにも文字というものが浸透しているとは思わなかったのだ。町と村をタルシスに近づくにつれて、文字を見かける頻度は確かに増えた。看板や標識に文字が書かれることが多くなっていき、するとどうだ。冒険者ギルドに来てみればこれだ。
 世界樹への道をともにする仲間の募集が行われていると聞いて来てみたら、やりとりは掲示板でやれときている。目の前の掲示板に所狭しと紙がピン留めされていて、名前を知らない誰かしらがああでもないこうでもないと言い合っていた。ということは皆、掲示板で用が足りているということなのか。この文字とかいうものの羅列で。
 掲示版に群がる人々を遠巻きにしながら、ギノロットは頭を抱えた――そう、彼は字を読めない!
 字を使わなくても暮らせるほどに辺鄙な漁村で育ったギノロットには、文字など必要なければ、文字を教える何者かさえなかった。これまで滅多に文字に頼ったことのないギノロットは、文字が読めることに重要性を感じてはいなかったのだった。
 ――やばい。本当の都会は違う。
 実は道中、貨幣を通じて数字は覚えた。十しかないのを覚えるなというのも無理な話で、さすがに数字は読めるようになった。ついでに『エン』という貨幣の単位も。だがこの掲示版を見ていると、所々光るように映る数字さえ、何だか滑稽に見えてくる。たった十二文字、読めたところで何になろう?
「冒険者ってみんな字ィ読めんのかよ……」
 と、ギノロットは誰問わず嘆いたつもりだったが、
「そうでもないんじゃないか?」
 右側やや上方から耳あたりの良い声がそんなふうにしゃべったので、ギノロットは顔を上げた。もじゃもじゃとした栗毛の、上背の高いその男を、まるで海藻みたいな頭だ、とギノロットは思った。
「文盲の冒険者志望も多いからなあ。そういうやつは酒場なんかで仲間を探してるよ。ほら、このあたり、酒場が多いと思わなかったか?」
「あ。そー言われりゃ……」
 道々首をひねる程度に酒場が軒を連ね、しかも昼間から妙に人が多かったので、タルシス人はそんなに酒が好きなのかと勝手に解釈していたが、よくよく思い出せば『一般人』とは雰囲気が違っていたかもしれない。中身の重たそうな革袋をジャラジャラ言わせたり、かと思えば包帯を巻く手やら足やらを悔しげにさすっていたりするのを思い出した。
「話すほうが手っ取り早いってやつもいるしな。俺も飯時はそっちへ行こうと思ってたのさ。お前さん、職は何だ? それ剣だろ?」
 響きのいい低音の声の男は、旅装に隠れたギノロットの剣をすぐに見つけた。ギノロットはこくりと頷く。
「じゃ、俺とも食い合わないな。俺はフォートレスだから。で――そっちのあんたは?」
 男がギノロットの向こうに顎をしゃくるので、ギノロットも左に目線を移すと、いつの間にかそこに一人、痩せぎすの男が立っている。まるで話しかけられるのを待っていたみたいにくすくす笑った。
「私はルーンマスターだよ。前に立ちそうには見えないでしょ?」
 ローブに覆われた腕をすいと上げると、その細く筋張った肘までが明らかになった。なるほど得物は似つかわしくない。
 痩躯のルーンマスターは愛想よしで、痩せた体つき以外はごく普通の柔和な笑顔だ。何より黒い目が理知的な光を帯びている。
「二人ともギルドを探してたの? 好みのところはあった?」
 彼は向こうの掲示版を指差しながらそう言ったが、
「俺は仲間の募集をかけようか様子を見に来たんだ。そうしたらこいつが、字が読めなくてまごまごしてるのを見つけてな」
「おや、ありそうな光景だね」
「それで何だかちょうどいいから、あんたら二人を誘ってみようかと思った俺なのさ。きっと歳も近いよな? どうだ?」
 ギノロットは顔を輝かせた。労せず仲間が見つかるのなら、それに越したことはない。北の国では話をするのが得意ではないのだ。旅の間で言葉を覚えるのに一苦労しているギノロットは、右手を差し出した。
「それでいーんなら、俺は仲間になりたい」
「決まりだ! ここじゃ、こんな風に掲示板の前で勧誘してるのも風物詩さ。俺はブレロ。フォートレスのブレロだ。よろしくな」
「ソードマンのギノロット。よろしく」
「私はワイヨール。ルーンの基礎は修めているよ。よろしくね」
 ギノロットがブレロの手を握り返し、ワイヨールとも握手を交わす。緊張のような期待のような心持ちで、胸が弾んだ。タルシスでの、ともに世界樹に挑む仲間が、こんなにすぐに見つかるなんて! 文字が読めなくても悪いことばかりではなさそうだった。

 掲示版の前で立ち話も何だからとどこかへ食事にゆこうとなると、タルシスでの生活が長いワイヨールは、どこが安くて美味しくて腹一杯になれるのかについて一家言があるという。
「何にしようか。米が好き? 麦が好き?」
「コメ!」
「ムギっ……ギノロットのほうが早かったな、じゃあコメにしよう。早い者勝ちだ」
 ワイヨールによって米料理を饗する店が見出され、三人はそこで、昼食には少し早い食事をとった。今日のお薦めというのを頼むと、やがて湯気が立つ鶏肉と赤パプリカの金色ピラフと、刻んだオリーブの実を散らしたトマトサラダが、思ったよりも多めに現れた。
「食いきれるのか、これ? こんな時間に三人だけだぞ」
「気にしなくていいよ。私がきれいに平らげるから」
 ブレロのちょっと呆れた調子にも、ワイヨールは顔色を変えずに慣れた手つきで取り分けていく。どうも昔から人より食べるんだよねえ、などと言いながら、彼は当然に自分の皿を山のように盛った。ギノロットも匂いを嗅ぎながら早速ひと匙取って運ぶ。
「……うまっ! 何これ」
 噛めば米に染み込んだコンソメスープと鶏肉の旨味が口いっぱいに広がった。パプリカも変わった果物のような甘みだ。ずっと空腹だったギノロットには余計に美味に感じられ、ついつい一口が大きくなって、頬が猿のようにぱんぱんになる。
「でしょ? 『セフリムの宿』の食事は何でもおいしいけど、ピラフが特別お薦めだね」
「待て、もうちょっと盛らせてくれ」
「俺も。も少し食いてー」
 男三人がしばらく無言でがっついて、ピラフもサラダもやたらに進んだ。食べる人間を黙らせてしまう美味しさだった。
 やがてブレロが、自分のことを話し始める。一番年上で、一番背が高いフォートレスのブレロは騎士学校を卒業したばかりの、正規の城塞騎士だった。ならどうして騎士として働かないのか、といえば、
「そりゃ当然、冒険者になりたかったからだろ?」
 胸を張ってニンマリと笑った。彼は生まれも育ちもタルシスで、この街が冒険者で賑わう様子を見て憧れたのだという。タルシスには昔から冒険者がぽつぽついたが、彼らを取り巻く環境が一変したのが五年前のことだ――ところがギノロットは噂を聞いてタルシスにやってきた旅人だから、タルシスの街や冒険者を取り巻く事情は何も知らない。初耳だと言ったら、ブレロは茶色の瞳を輝かせながら天井、いや空を指さした。
「ギノロットは南のほうから来たんだろ。気球艇ってもう見たか? あれが発明されたのが五年前だったんだ。俺はまだ十八で、そのころの熱狂といったら凄かったんだ! みんな自由で楽しそうで夢に満ちてた。そりゃ憧れるさ」
 街のあちらこちらの桟橋から発つ、巨大な布袋に船をぶら下げたのが気球艇だとギノロットは解釈していた。タルシス領内のいくつかの町や村で、荷物を気球艇へ運び込む仕事を手伝ったことがある。
「あれで世界樹目指すのは知ってんだけど、あのデカいのがどーして飛ぶの? なんで?」
「それは鋭い! 大事な質問だ!」
 なんの気なしに発した疑問に、ブレロが前のめりになった。
「虹翼の欠片、っていう欠かせない石があるんだ。その石が発見されてから、気球艇は始まったんだ」
 曰く、タルシスのさる鉱山に、『虹翼の欠片』を産出する場所があった。その名の通り虹色に輝く鉱石は、ある手順を施すと、空気よりも軽い気体を作る。それを気球に詰め込むと、数人乗りの船なら楽に浮く。世にも奇妙な空飛ぶ船を、タルシスがいくつも所有できる理由だった。
 ところが、とトマトのスライスを頬張るワイヨールが引き継いだ。
「どうやらその大事な石、取り尽くしちゃったらしくってさ?」
「え!?」
「もう滅多に見つからないって時期が最近まであったんだ。……世界樹を目指す途中に非常識な谷があるの、聞いたことあるでしょ? 私も世界樹目当てだったから、もう気球艇は作れないって言われて萎えてたんだよね。だってどう考えても、陸から世界樹には行けないもの」
 ギノロットの匙を運ぶ手が止まった。地上を行く旅の苦労は胸焼けするほど知っているし、非常識な谷――『北の障壁』は、世界樹への道を妨げる悪者としていつでも人の口に上った。霧が深くて視界は利かず、下を覗けば底も見えない、逆らいきれぬ強風が吹く谷は、何人もの冒険者や兵士の命を奪っていた。
「んじゃ俺たちも気球艇作れねーの?」
「ところが、最近また見つかったんだなあ! しかも街のすぐそば、タルシスの公有地でだ。初めて聞いたときは冗談かと思ったぜ……それで発令されたのが『辺境伯のミッション』。これは知ってるだろ?」
「タルシスの辺境伯って変わった人でさ。冒険者をほとんど全面的に支援してるんだ。資金とか施設とか、気球艇もそうだし。実はミッションも、この一環」
「そう。それで話を元に戻すと……さて、俺たちは世界樹を目指す。そのためには気球艇がいる。だが気球艇には『虹翼の欠片』が必要になる。そして気球艇のある冒険者になるには――?」
「辺境伯のミッションに挑み、冒険者の資格を得るということだね。どう、話、繋がったかな?」
「――すげー、」
 ギノロットは目を丸くした。ただ噂に聞いて眺めていただけの世界樹や冒険者や気球艇といった言葉たちが、彼の中で途端に現実味を帯びて広がっていった。辺境の街タルシスは、本当に世界樹を目指す街だったのだ!
「繋がった! やること急に見えてきた!」
「な? すごく面白そうだろ?」
「うん。その、かけら? とかゆーの、早く欲しい」
「じゃあ、残り二人だ」
 スプーンをもてあそびながら、ニヤリと笑ってブレロは言った。
「一緒に世界樹を目指す仲間をもう二人、見つけなくちゃな。冒険者ギルドは『初心者は五人パーティを組め』って必ず言うのさ。俺は知ってる」
 ブレロもワイヨールも、ギノロットにたくさんのことを教えてくれた。例えば、気球艇でも越えられない『北の障壁』をどう攻略するか。そのための何かが『碧照ノ樹海』に隠されているのではないかというのが、冒険者の間でもっぱらの噂で、碧照ノ樹海は天然の迷宮ではある一方、近辺の『障壁』入口や『迷宮北』には人の手による遺物が見られるのだ。碧照ノ樹海は自然の侵食を受けながらもなお存在し、冒険者の挑戦を受け続けている。この迷宮がいつから存在するのか、遺物が何のために作られたのか、誰の手によるのか、謎に包まれているが相互に関わりがあることは誰もが直感していた。
「それだよ。そういう秘密も知りたいと思うでしょ? もしも本当に障壁と樹海に関わりがあるんなら大発見だよ。どうして障壁があるんだと思う? 障壁の向こうの世界はどうなってるんだろう? 私はそれでタルシスに来たんだ」
 辺境伯のミッションを聞き、ワイヨールは世界樹にまつわる謎に興味を持ったのだという。口調は丸いが、彼の目は好奇心で輝いていた。ルーンを操る印術師である彼は、未知の探求が一番の喜びらしい。
「それでギノロットは? きみが冒険者になるのは、なんで?」
「俺は……」
 ワイヨールの単純な尋ねに、しかしギノロットはおずおずとなりながら答える。
「世界樹の楽園に、行ってみたい。言うといっつも馬鹿にされんだけど……でもどんなところなのか、行ってみたい」
 少し決まり悪くなり、彼は首飾りを手に込めてうつむいた。人に話すと夢物語やただの空想だと笑われてしまうので、あまり話をしたことはなかった。ギノロットの不安な手が、つい首飾りを求めて握らせる。
 だが、
「一番わかりやすくて、いいじゃない」
 すぐにワイヨールはにこりと笑った。
「それはさ。みんな同じことを考えたことがあるんだよ。なのに、今はもう諦めちゃったからさ。……言っちゃなんだけど、もう挫折したのと大体同じさ」
 ブレロが大いに頷き、右手のフォークでオリーブを突き刺した。ギノロットは、ぱちくりする。
「タルシスでは世界樹を追うのが許されてるんだ。何しろ権力者が夢を見てるんだぞ。世界樹にかけてるとんでもない金額を知ったら、全員呆れるくらいな! だから本当は、辺境伯が一番の冒険者だよ。冒険者の治めてる街が、このタルシスなんだ」
「……辺境伯も、冒険者?」
「だからそれでいいんだよ。第一、面白そうだろ? そういう昔話の楽園みたいな場所が実在したら、みんなひっくり返るぞ」
 ブレロの愉快そうな口振りにつられて、ギノロットはついくつくつと笑った。こんな夢物語を信じてもらえて嬉しくて、もしかして自分は、とてもよい仲間を見つけたのかもしれないと、長い放浪の旅の中でようやく心から感じたのだった。

 一夜明けた。
 セフリムの宿でギノロットたちが朝食を取り、その後の紅茶を楽しみながら、三人は初めて協力して事を成そうとしていた。それは迷宮の探索でもなければ魔物を相手取る戦いでもなかったが、緊張をともなう仕事だった――ブレロが分厚い聖典を指でベラベラ流し始め、やがて機を見計らって声が上がる。
「ストップ!」
「――このへんっ!」
 ワイヨールの声とともにページが開く音が止まり、ギノロットはえいやとページのどこかを指さした。もちろんギノロットには何が書かれているか分かるべくもないので、一つ咳払いしたブレロが代読する。
『すると一人の女神が絹の包みを広げ、銀の稲穂を地に植えた』
 何も朝から宗教の時間ではない。ギルドの名前を決めようというのである。「ずっと前からこんな風に決めたかったんだ!」というブレロたっての願いで、聖典から偶然を頼みにギルド名が決められようとしているのだ。
「じゃあ――女神の絹、絹の包み、銀の稲穂、稲穂の地、くらいかな」
 と、ワイヨールが単語を抜き出して調子を整える。ブレロが口元に手をやり、ギノロットとワイヨールが頷く。
「銀の稲穂か稲穂の地だな」
「前二つは優しい感じだもんねえ」
 じゃあ、とギノロットが口を開いた。
「じゃー銀の稲穂がいい。そっちのが好きだ」
「そうだね、視線が定まるね。稲穂の地もいいけれど、何だかだだっ広いし……」
「俺たち稲に隠れて、見えねーよな」
「なら決定。『銀の稲穂団』な!」
「ほほー。『黄金の夜明け団』みたい」
「あっ、コメじゃん。やった」
「シンボルフードはピラフで決定」
 とにもかくにも案外すんなり決まったギルド名であった。本当はもっと揉めるかと思っていた三人だったが、それは杞憂に終わった。自分以外の誰かが、一方ならぬ思い入れのあるギルド名を温めていたらどうしよう……などと、こっそり思っていたのだ。なので、『かえって面白い』と最後に指さす大役を仰せつかった文盲ギノロットは、「ふつーの名前でよかった」と安堵の吐息を漏らした。
「だねえ。誰か殺されてたらどうしようと思ってたよ」
 どこの神話も殺戮には枚挙に暇がないようだが、幸いにして平穏な部分を選べたらしい。ギノロットはますますほっとなる。
「結構ちょくちょく犯罪だもんね。毒殺とかさ」
「人んちに暴れ馬ぶち込んで殺したりとかな」
「ろくでもねーな」
「そりゃ神話なんか殺り方いろいろ、よりどりみどりよ。ギノんとこのろくでもない殺し方は?」
 ギノロットは少し考えた後、えぐさに逡巡してぽそりと口にした。
「……斬ったり折ったりして逃げられなくしてから、夜中サメの餌にくれてやる」
 二人は顔を歪めて身悶える。爽やかな朝の紅茶は一気に血生臭くなった。
「つーか、そーゆーのになったらどーするつもりだったんだ」
「そりゃやり直しだろ? 嫌だろ、『血に飢えた狼団』とか」
「ゆくゆくはお尋ね者になりそうだねえ」
 ありえないギルド名について一通り馬鹿馬鹿しい会話をしてから、彼らは再び冒険者ギルドに足を運んだ。例の掲示板で、残る二人の仲間を探すためにだ。