セリス

 セリスが一日を終える前の日課である剣の手入れをしていると、苦笑の声が彼女の背中にぶつかった。弾かれたように振り返ってみると、飛空艇の外への敷居越しで、眩しい夕日を背負いながらロックが立っている。重たい装備をすっかり解いた格好で、いつものジャケットの裾を風にはためかせていた。
 彼女が日課をこなそうとするのに笑っていると知れたが、かといってセリスは命を預ける道具を無碍に扱うわけにはいかなかった。だから飛空艇に一人残っていたのだが、勝利の祝宴の席にいないのはやはり目立つらしい。彼女は諦めて剣を鞘に収めた。
「子供達が呼んでるぜ。ティナがお前のこと『おうたのじょうずなおねえちゃん』て言っちまったから」
「……はあ?」
「お前の歌、聴きたいんだってさ」
 整った顔立ちが台無しになるほど、彼女は酷く眉をしかめる。
 ティナは時折、セリスの歌を聴きに来ることがあった。自分の歌にティナを惹きつける何かがあることは承知していたが、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。
 わざわざ聴かせるために歌っていたことは一度もないが、いつだかに飛空艇の貯水タンクが壊れて船中水浸しになって、萎える気持ちを励まそうと帝国で慣らした軍歌を歌ったときがあった。あるいはガウとウーマロがさんざんに暴れて船中のカーテンというカーテンをずたずたに引き裂いてしまって、怒りの針仕事で情炎も陰惨な歌謡曲を口ずさんだとき。もしくは食事当番の夕方、市場の女将さんに教わった節回しの軽妙な数え歌。
 セリスが歌い始めるとどこからともなくティナが現れて、手伝うふりをしては耳をそばだて、そして気がつくと覚えて歌っているのだった。母親の真似をする子供のようでどこか愛らしく、悪い気はしなかったが、それとこれとは話が別。
「ちょっと待って。私、子供の歌なんて知らないわ」
「そんなの教えてもらえばいいさ。ほら、いいから!」
 戸惑いへどもどしているセリスの手を、ロックは強引に掴んで引っ張る。勢い置き去りにされた荷物に未練がましく待ってとか離してとか哀願しているうちに、ロックがずいずいとモブリズの家まで引っ立てて、
「連れてきたぜ!」
 子供達の歓声がセリスの耳をつんざいた。おねえちゃん、おねえちゃん、何か歌ってよ! ――口々に叫びまくる興奮しきった子供達と、それを慈愛のまなざしで見つめる『ティナママ』。盛況に驚いて鳴き声を上げる生まれたての赤子。それをしっかといだく父ディーンと母カタリーナ。全てが彼女を待ち受けていた。セリスは抗弁する暇もなくあっという間に捕まえられ、暖炉のそばまで押し流されて、すでに引き返すなどままならない。
 小さな背丈の人垣の向こうに、暖炉の明かりで顔を照らすままに座り込む恋人の姿が見えた。彼は穏やかな表情を薄い唇に湛えながら、声を出さずに口元を動かした、『おねがい』と。
 セリスは諦めの残滓を捨てきれず祈るように天を仰いだ。視界に映るのは古びた梁とすすけた天井、隅に溜まった埃と蜘蛛の巣。ここは舞台ではなかった。血風漂う戦場でもない。
 しかしながらこの息の詰まる狭いところには、彼女の人生の新たな道筋の一歩目が、否定しがたく存在していた。一心不乱にセリスの歌声を待つ子供達の、抑えがたく希望のきらめく美しい瞳の中に。
 決心しながらもためらいがちに吸い込んだ息は、人いきれの匂いがした。彼女はついにまぶたを閉じる。
 戦士でもなく、魔導士でもない。常勝将軍と呼ばれた日々は、どれだけ遠いものだろう。
 ――ああ、お願い子供達。どうか私の歌を笑わずに聴いていて。