シャドウ

 全身を走る鋭い痛みと頬を舐める暖かな感触で、彼は目を覚ました。過去に何度か体験済みの目覚めだった……恐る恐る開いた視界に、空の爽快な広がり。
 ――くそ、畜生め! 死にぞこなったのか!
 彼は世界中を呪わんばかりに心中罵倒した。生きていたくなかった。生きていたくなかった。俺は死に場所を探していたんだ、そうしてやっと死神に追いつかれたのだ。なぜまだ俺を生かそうとする!
 背中に当たる尖った何かを疎んで、彼は体を起こした。体中ぶつけたらしく黒装束のあちこちが引き裂かれ、日に晒されなかった生っ白い肌が露出して、真新しい傷を作っている。覆面も剥がれ落ちていた。
 一番憎たらしいのはあれだけの崩壊の中で、掠り傷しかないことだ。足も腕も折れてすらいない、全く見事な五体満足で、醜くこの世にしがみついたのだ。
「ケフカのくそったれめ、どうしてもっと派手にやれない! 俺を殺せ! 殺せえッ!」
 髪を振り乱しながら声高く吼えて瓦礫を手当たり次第殴り、投げつけ、叩きとばし、しかし何事も変わるはずがない。ケフカとは彼自身が手をかけた者の名、死した者に願いを掛けるなど痴れていた。
 ひとしきり暴れたあと、彼は絶望してふらふらと倒れ込んだ。元々幾分の体力も残されていなかった。
 愛犬がくうんと甘えて、彼の口元に鼻を擦り寄せる。彼の憤怒を良しとしないためであり、彼を目覚めさせようと懸命に頬を舐め続けていたのも、この犬だった。
『相棒』はいつでもそうだった。どれだけ彼が己のしぶとさを呪っても、必ず生還を喜んでくれた。旅の孤独を埋めてくれる相棒である反面、死ぬことだけは許してくれなかった。
 主と血道を共にした犬は、彼と同様に体中に無惨な掻き傷を作っていたが、そんなもの始めから存在しないように、慕わしく前足を彼の体にかける。千切れんばかりに尾を振る……いかな彼でも、愛犬にだけは冷酷になれなかった。その痛ましい傷を癒してやりたかったが、魔法も荷物もとっくに失われている。
 犬は彼を見つめてくる。理知的な光を湛える黒々とした瞳は、これほど傷つこうともまだ生きることを諦めてはおらず、主の次の行動を待っていた。
「……だめだ、インターセプター。俺には生きる値打ちなんてないんだ」
 しかし犬は、耳をぴくりと動かしただけで、彼の吐いた弱音を黙殺した。この忠実な友は、主の魂が切れ止まぬ鈍痛と失意の稲妻にしたたか撃たれていることを知っていたが、それでいてなお、主が死の淵に身を投げることは頑として認めないのだ。
「言ったろう、お前は行けと……なぜ俺の元に戻ってきた」
 生きることそのものに彼は倦んでいた。精神はかつての裏切りに摩耗していた。醜い父の存在を知らぬ娘の笑顔は見るもまばゆく、彼の心を加速的に蝕んだ。白雲も鮮やかな空などどす黒く憎悪を塗り込める対象となり、燦々たる太陽は熱線で体を焼くばかりの忌まわしき存在となり果てた。風が颯爽と彼の亜麻色の髪を梳かしみせても、そんなものただ邪魔っ気で鬱陶しいだけだ。どれだけ世界が彼を祝福しても、彼は陰惨な呪詛によって、人生を血と凶行に染め穢しずたずたに傷つけ引き裂いた。
 それでもまだ彼を生かそうとするものがある。彼を死神の手から守ろうとするものがある。
 彼は慟哭した。あまりのやり切れなさに体を丸めてしゃくりあげながら涙を流した。死への憧憬と戦慄が渾然となって翠緑の瞳から溢れ、砕け散った瓦礫を点々と打った。何年も何年も溜め込んだ汚泥が、ぼろぼろと零れ落ちていく。まだクライドであったあの頃、一瞬を過ごした鄙びたあの村、あそこで愛という名の甘露を含まなければ、みどりの喜びを抱かなければ、二親がなくともなお光のうちにいたと知らずにいたなら……この感情を取り戻さずに済んだのに――!
 それでも世界は彼をただあるがままにしておいた。生きろとも死ねとも言わなかった。いずれ日が落ち夕照が辺り一帯を照らし、そして彼の頼りなく震える背中に月光を投げかけるのだろう。そして夜風に冷える体を、小さな友が温めるのだ。