エドガー

 宵の口の空に淡く浮く爪月を見つけた。空の青さに未だ飲まれているそれは、運が良くなければ気づかなかっただろう。
 自由を渇望していた弟を王家のくびきから解き放ったとき、コインを投げ上げた夜空にも同じ月が浮かんでいた。まだ青臭い理想論を捨てきれずにいた、何も知らぬほんの子供だった、そして自分が子供だとも自覚していなかった、あの頃。あの時の月は確か十六夜の月だったろうか。
 風紋を刻んだ砂の原の稜線が青白く茫洋と浮かび上がっていたのを覚えている。運命が決したと知れたときの弟の悲しげな瞳も。言外に『兄貴も行こう』と訴える弟の視線を、必死に断ち切ったのだった。
 偶然の出来事が、実は彼の仕掛けたいかさまだったということは、すでに弟にばれている。
 しかしあの芝居が間違いだったとは、彼は些かも思っていない……父の死すら受け止めきれなかった弟は、おそらく王位の重みに耐えられなかっただろう。弟は心優しい気性だったが、引き換えに人間の後ろ暗さに対しては未熟でか弱かった。母が自分たちを産んで亡くなったのだと知ってからは、それをいつまでも気に病むような部分もあった。
 だから城を抜け出した後、マッシュが武僧として暮らしていると知ったときはこの上なく安心したのだ。弟はただ感情的に動いているのではない、己の弱さがどこにあるのか知っている、と。弱さを克服するためにどの道をとればよいのか分かっている。
 それで初めて、王位を捨てた弟が少し羨ましくなった。自分にはもはや王になるほか道はない。弟には王になる以外のすべてがある。
 なるほど自由とはそういうことだったのか――どれだけ悔やんでも妬んでも、玉座の中から己を磨くしかないのだ。
「兄貴、行かないのか?」
「あ? ああ今」
 かつてと比べて見違えるほど逞しくなった弟がエドガーをつつき、彼は現へと舞い戻った。その泰然とした微笑は、幼い弟の持ち得なかったもの――。微笑み返して、彼は歩みを進める。
 弟が霊峰コルツで兄弟子と共に厳しい修行を積んでいたのは、その師父ダンカンから送られる時折の書簡で知っていた。ダンカンの朴訥な筆致と書き慣れぬ文面の中からも、過酷な暮らしぶりは手に取るように知れた。恵まれた王宮育ちの弟にとって、修練の日々は血反吐を吐くのと同じくらい苦痛であったはずだ。誰にも打たれたことのない弟が、唸りを上げて飛んでくる拳に最後までひるまずにいられるかどうか……彼は大いに気を揉んだが、ダンカンが不幸な知らせをよこすことはなかった。
 果たして弟は血に迷った兄弟子を討ち、師父から奥義を継ぐほどに値する強さを得た。困難な道の一つを極めるに到ったのだ。あの小さくひ弱だった弟が、屈強な武僧として皆の信頼を集めて……。
 弟に、あのコインの釈明をすべきだろうか? 都合十年近く、自分は弟を騙し続けてきたことになる。いや。とすれば否が応でも話さねばなるまい。弟はこの決断を恨んではいないだろう。しかし唯一無二の片割れに押しつけた欺瞞を、明らかにしておかなくてはいけない。つけておかなければならないけじめなのだ。
 もし今晩、まだ夜空にあの爪月が見えたなら、弟と二人で月見酒といこう。
 彼は苦く歪みかける笑みを弟に隠しながら、おんぼろの家から賑やかに飛び出してくるモブリズの子供達を遠目に眺めていた。