ストラゴス

 魔法をなくしたストラゴス老は、若者達の祝宴から少し早く引き上げて、ファルコンの簡易な寝台に腰掛けた。若い衆に混じって騒ぎまくるのは楽しかったが、さすがに死闘を繰り広げた後となると、元々がたの来ているこの老体、立っているだけでどうにも辛い……背後の窓から差す月明かりは、あるかなしかのささやかさで、サイドテーブルに置いたランプが部屋を浮かび上がらせる唯一である。
 さてこの老人、文字を覚えた時分より日ごとの有り様を書きつけておくのが長の習慣になっていた。つまり日記をつけていたのであるが、決死の旅をようやく終えたこの日も当然に筆を執るつもりでいた。
 紐の栞を頼りに今日のページをめくると、左手に、昨日の出来事が嵐のど真ん中でまろびながら書いたかのような筆致で記されている……敵地の奥深くで書いた日記。いつ魔物に襲われるか分からないのに、眠る前には日記をつけなければどうしても落ち着かず、いい標的だから明かりを消してくれと迷惑がる仲間をなだめながら、さっと殴り書きに書いた。
『まだ生きてやる』
 瞬間的に噴き出た貪欲な言葉に彼は満足して笑い、それから泥のようにぐっすりと、枕を並べた他の者が『ついに爺さんぽっくり逝ったか』と心配するほどに、深い深い眠りに落ちた。翌朝誰よりも早く目覚めた彼は、これまでにないほど気力も体力も充実していることをまず悟り、これならば天の星をも落としてくれるわと意気込んだ。
 いかに干からび老いぼれようとも、足腰が痛んで若者達の疾走に出遅れようとも、決意だけは彼らに負けなかった。灼熱のように燃えさかる生きる欲望は禁断の合言葉を唇にほとばしらせ、指先なめらかに宙を舞い紋を描くと、偽りの光満ちる天空を突き破って幾多の星々を呼び寄せた。かの悪魔の翼を消し炭に焼き尽くした瞬間だった。仲間の誰もが度肝を抜かれた視線を寄こした快感を、彼は生涯の宝物にするだろう。何しろ太古に失われたとされる、隕石を呼び寄せる『メテオ』なる超呪文が本当に成功するとは、彼自身も思ってはいなかったから!
 そのお陰か、微かなうたた寝から覚めたらば体中の筋肉という筋肉、関節という関節はすさまじい悲鳴を上げており、ソファから立ち上がった途端に一歩も身動きすることままならず、杖にしがみつきながら情けない声を出す羽目になった。従ってこの寝室まではまだまだ体力に余剰のある双子の片割れに負ぶさってきた次第であるが、そのままベッドにまで連れて行かれることを固辞したのは、この老人なりの意地であった。何しろ背負われている間中ガハガハと笑われ続けていたのだから、少しく抵抗しなければ格好がつかぬというもの。
 あまりの膝の痛さに耐えかねて、つい反射的に手のひらをかざしてはたと思い出す。もう、魔法は、ないのだ。
 かつてまだストラゴス老が尻の青い洟垂れ坊主だった頃、爺さんだったかひい爺さんだったかあるいは両方だったのか、耳にたこができるほど言われていたのは、余所者に魔法を見せてはならぬというかたい戒め。それが故に島から出てもならぬ、島に生まれたものは島と生き、島の土と還る定め――遙かな夢を見る子供らの希望をむざむざ手折るこの悪習は、昨日を限りにサマサから失われた。両親から継いだ血のために、遠い海の向こうに旅立つ夢を自ら捨てずとも良いのだ。
 何百人と乗せてもなお沈まぬような頑丈な船と、それを何十艘も留め置くことのできる立派な港。しばしの羽休めをする海鳥たちの瞳。漁師が何匹も獲って帰った、身のみっちりと締まった脂乗り良いつややかな大魚。それを卸す広大な敷地の市場はひっきりなしに人が行き交いかまびすしく、どの食材も巧みな技の料理人によって所余さず食卓に供され、ついでに唸るほど旨いときている。日ごと夜ごとに繰り広げられる男女の恋の駆け引きと、波のあわいに儚く消えゆく思慕の情――
 若い頃開いた小説の中の港街は、サマサにあろうはずもなく煌びやかで美しく、途方もなく魅力的で、だからこそ彼は老いてなおその憧れを忘れることができなかった。この港街に行きたい、島を出て一端に金を稼いで暮らすんだと宣言したのは、ガンホーと二人だけの秘密にしていた海岸の洞窟での思い出だ。無論その誓いはあえかな夢と散ったけれど。
 だからかつて夢見たことを忘れずにいる老人は、万感の思いを込めてこのように白紙へ羽ペンを滑らせた。
『欲した未来を目指すのだ』