泥濘

 洞窟の天井は崩落したのかぱっくりと開いていて、青空を切り取って陽光を降らせてくる。それまでの道程が薄暗く不安をかき立てるものだったのが嘘のよう。暖かい日の光が剥き出しの肌を温めてくれるのがとても心地よく、また幸せな気持ちにしてくれた。
 自然の見せる荒々しさと繊細さに、私はいつも感嘆せざるを得ない。宝物ももちろんだが、私が旅を止められないのは、足を運ぶ先々の自然がいつも新鮮な驚きを与えてくれるからに他ならない。たった今出会った美しい光が、険しく荒々しい岩肌にくっきりとした陰影を落としてくれたように。
 だから、彼女が私の旅についてきたい、と言いだしたとき、厄介なことになったと思う反面、私がいつも感じる喜びを彼女にも見せてやりたくて仕方なくなった。それで私はついうっかり、いいよと彼女に答えてしまった。期待に染まる頬の愛らしさにはどうしても勝てなかったのだ。
 初めてのトレジャーハンティングに、彼女は逸る気持ちを抑えられないでいる。彼女の姿はいくら準備したとはいっても、この埃っぽい洞窟におよそ似つかわしくなかった。何しろ足元のおぼつかない洞窟に、スカートで出発しようとした彼女だ。怪我をしやしないかとはらはらするが、彼女は慎重に、慎重に、踏み出すところを用心深く選んでは歩を進める。
 このところの雨で道はずいぶん悪くなっていた。彼女の華奢な足でも耐えられるように、優しいところを選んだつもりなのに。所々ぬかるんで足を取られたり、あるいは土砂崩れを見つけたりした。が、もっとも彼女はそういうアクシデントを楽しんでいるようだった。こんな風景、見たことないわ、とか言いながらニコニコしている。
 道が古ぼけて軋む小さな釣り橋に差し掛かったとき、彼女はねえ、と後ろから声をかけてきた。
「ねえ、今日のお目当てはどんな宝物?」
 そのきらきらと光る濃紺の目は相変わらず美しい。胸の中が愛しさで一杯になって、私の顔はついほころんでしまう。
「ああ。もうすぐお前の……」
 と言い掛けたところで、私ははっと気がついた。いけない、バレてしまう!
「この山にはとても珍しい宝が隠されてるって噂なんだ」
「ふうん?」
「ものの本によれば、数百年前にこの辺りで栄えた一族の財宝だとか……それを、見つけだすんだ!」
 私はあわてて取り繕う。本当はそんな大層なものではないのだ。そんな噂があるというのは事実だけれど、私が本当に探しに来たもの、それは——
「あ、」
「ん?」
 彼女の表情が、突然切り替わる。あまりに突然すぎてそれがどういう意味なのかとっさに分からないくらい。私の足下がぐらりと揺れた——と感じるやいなや、
「——ロック、危ない!」
 何が何だか分からなかった。私は彼女の細い腕にどっと突き飛ばされて、吊り橋の向こうまで転がっていた。回転する視界の端で、ついさっきまでいた吊り橋が、ガラガラと不吉な音とともに、崖下に持って行かれるのが見えた……愛しい彼女の体ごと。
 嘘だ、まさか、
「レイチェルッ!」

 私はその一瞬に見つめた、彼女の表情を忘れることができない。救いを求めている? いいや。『あなたを助けて良かった』? いいや。『あなたを悲しませてしまう』……今にも泣きそうなその瞳の光は、あれからずいぶん経ったはずなのに、思い出すたびに無力感に苛まれるのだ。涙も出ない屈辱感に襲われて、私はそれを孤独に耐えなくてはいけないのだ!

 ——目が覚めた。ここはどこ? 何が起きたの? 心臓が狂った踊りを踊っているみたい。
 呼吸が落ち着かず、全身びっしょりと脂汗をかいていた。とにかく普通に息をすることだけ考えていると、次第に高ぶった気持ちが落ち着いてくる……私は横たわっているようだった。どこも痛くないということは、特別怪我はしていないということだ。
 私はセリス。セリス・シェールという女。夢を見ていたのだ、気分の悪い夢を。あれは決して現実なんかではない。ましてロックなどという男ではない——言い聞かせなければ、自分が分からなくなってしまいそうだ。
 上半身をゆっくりと起こして、辺りを見回した。寝室は暗く、表の月光が差し込まないようにカーテンをしっかりと閉めたのは、私自身だ。板張りの室内は古びていて、一歩踏み出すごとにミシミシと音がして、飾ってある油絵も色褪せていた。決して洞窟の中などではない。落ちた桟橋もありはしない……なぜならここはジドールの下級街で、私は宿の一室にいるのだ。ロックと共に。
 ついたての向こうのベッドから、安らかなロックの寝息が聞こえる。悪夢に取り憑かれていたのは私だけだったようだ。
 額に張り付く髪をかき上げながら、私は考える。ロックに辛い過去があることは、コーリンゲンで聞いた。死なせてしまった恋人の亡骸を、蘇生の秘宝の入手を夢見て大切に保管してあることも、この目で見た。儚い細い、筋肉のない白い両腕は、いかにも少女らしい愛らしさに満ちたあの娘。
 夢に出てきたレイチェルという少女と、眠りについている彼女はまるで同じ人間だった。そして私はすっかりロックであるつもりだった。まさか他人の記憶を、夢に見ているとでもいうの? すでに馬鹿馬鹿しい発想だが、それでもそうとしか思えない。
「魔導のせい……?」
 部屋の隅に放り出されている道具袋に、私は目をやった。それは真っ暗な部屋の中で、自ずから淡く怪しく瞬いていたのだ。ほとんど駆け出すようにして私はそこまで辿り着き、引ったくるように袋を取って開け——確信する。袋の奥で魔石が光っている。青い静かな、それでいてどこか禍々しい光を放つその石……ケット・シーとセイレーン。
 ——私たちはお前を許さない。
 魔石を手に取った途端、頭の中に響く怨嗟の声。一つは透き通った女のソプラノ、もう一つは甘く丸く可愛らしい子猫の。
 ——我らと仲間の力を無理に奪い取ったお前たち帝国を、私たちは許さない!
「それで私にロックの夢を見せたというの……!?」
 ——意識がなければ、お前の魔導を啜る力を御するなど、たやすいこと。
 ——苦しむがいい。
 その声が恨みに彩られていなかったなら、きっと私はうっとりと聞き入っていたに違いなかった。だからこそ彼らの呪いの言葉が、じっとりと這い寄る闇のように染みいり、束縛し、身動きも呼吸も適わなくさせる。
 ——お前の男が、お前ではない他人にこれ以上なく劣情を抱く現実に、苦しみ続けるがいい!
「やめて!」
 私はとっさに二つの石を壁に向かって投げつけた。備え付けの机にぶつかって、酷い音を立てて床に転がった。息が荒くなっていることと、涙を流していることに気がついたのは、背後から新しい声が聞こえてきたときだった。
「……何してるんだよ……」
「ロック、」
 横になって目を閉じたままなのだろうか、おそらく物音で目を覚ましてしまったに違いない。布団に潜ったままのロックの、重だるく寝返りを打つ夜具の音が聞こえる。
「さっさと寝ないと明日が酷いぞぉ……」
 むにゃむにゃ言ってから、再び高々と寝息を立て始めた。彼はまどろみの追っ手を振り切ることができなかったのだ。
 私は、彼が潔く目を覚まさなかったことに感謝して、宿を飛び出した。もう今夜は眠れそうにない——満月の光を浴びて、私は泣いた。ジドールの夜半の静寂に感謝しながら、街路樹の根もとで膝を抱えて泣いた。
 初めての恋が粉微塵に砕ける予感に、私は身をよじって、声もなく、泣いた。