ラヴァンデュラ

 セリスがバスタブに垂らしたのは、マッシュが誕生日の品に贈ってくれたラベンダーの香油だった。香油は身につけたり、寝具に染み込ませたり、お湯に入れれば芳香するというので、早速バスタブのお湯に混ぜてみたのだ。
 フィガロ王家御用達の、名うての香油師が直々に作った貴重なラベンダーの香油。そんなものには断固として無関心を決め込んでいた——だってそんなしゃれた贈り物、俺には思いつけなかったから——ロックは、そのふくいくとした匂いに思わず振り返った……ら、こちらに向かってにんまり笑うセリスとびたりと目が合ってしまった。悔しくなって、ちぇっと新聞に視線を返す。
「いいじゃない、別に。私はロックの贈り物だって嬉しかったのよ」
「だってマッシュのに一番喜んでたじゃないか」
 もう、子供じゃあるまいし。微笑を含んだ口づけを首筋に感じたけれど、ロックはちっとも幸せじゃなかった。
「とっても意外だったのよ。マッシュと香油なんて、ちょっと結びつかないじゃない」
 お茶好きのマッシュはハーブについても少しの知識を持ち合わせていて、『とても気分よく眠れて、俺も気に入ってるから』とカードに書き添えてプレゼントしてくれたのだ。あの男らしい屈強さと、贈り物やカードの品の良さ(マッシュの手書きの文字は、びっくりするくらい流麗で達筆だったのだ!)は、大いにセリスを喜ばせた。だから、ロックは気にくわない。
 セリスが少し強引に、ロックの手を引いて浴室へ連れて行く。一緒にバスタブに浸かるのは、ロックがいつだかに無理を言って始めた習慣だったものの、すっかりセリスに馴染んだらしい。鼻歌交じりに服を脱ぎ始めるのにロックはますますむっとしたが、背中を向けて脱ぎ続けるさまは、自分に対しての恥じらいなのだということを、そのとき何となく、感じた。脱衣かごに投げ入れた洋服の下に、セリスが下着を差し入れるを眺めつつ。変なところで可愛いもんだよな。裸なんて、もっと恥ずかしいじゃないか。
 天井からぶら下がるフックにランプを吊すと、バスルームはいつも神秘的に見えた。白いタイルが炎の淡い光を吸い込んで、あたりに反射して増幅させる。セピア色の空間の真ん中に、湯気上る猫足のバスタブ。そして立ちこめるラベンダーの香り。少し癖があって、それでいて落ち着きのある香りだ。
「さあ、お先にどうぞ」
 セリスは満足そうな笑顔でロックに振り返って、バスタブへと促す。ロックの胸板が背もたれの湯船は、セリスの特等席と決まっていたからだ。ロックがバスタブにつま先を突っ込むと、何かシャボン玉でも割れたかのように、ラベンダーの香りが強くなった。
 セリスは湯船にさざ波が起こるのを、何か幸せの象徴かのように、眺めている。しょうがねえなあ……子供っぽい嫉妬心を何とか押しやって、セリスの頭をごしごし撫でた。
「ほら、お後をどうぞ」
 ……子供っぽい嫉妬心を何とか押しやって、セリスの頭をごしごし撫でると、彼女は満足そうに頷いた。
 このあどけない笑顔を独り占めできるなら、たかが砂漠の王子のラベンダーごとき、大したことはないのかもしれない。だって自分以外の誰も、彼女のこんな笑顔など、まだ見たことがないはずなんだから。